カテゴリー 「真・嘘六百(ドリマガ版)」 のアーカイブ
2005年02月02日
嘘六百・ドリマガ版の再掲について
「嘘六百」は、鶴見六百が記すゲーム業界のオーラルヒストリーと題して、ドリマガ(ソフトバンクパブリッシング刊)2002年5月31日号~2004年7月9日号まで好評“顰蹙”連載されたコラムだ。
その内容については、初回に説明したので、ちょっと引用してみよう。
大昔、ドリマガの先祖である「Beep」でライターを始めて以来、セガAM→CS→SCE→フリー、と、かれこれ18年もゲーム業界で禄を食んでいますが、未だもって無名の制作者です。特にドリマガ的には超無名。(中略)そんなワタシですが、無名は無名なりに、雑誌の記事に載るようなパブリシティ宣伝文句でもなく、匿名掲示板に投稿されるような愚痴暴露中傷誹謗の類でもない、「ゲーム業界の真実」を赤裸々に綴れるかな、なんて自負しております。
はたして、ゲーム業界の真実を綴れたかどうか?
実際の所、ゲーム雑誌上でゲーム業界の真実を描き出すのは、制約が多すぎて難しいというのが、連載を終えた今だから云える、正直な感想だ。その辺りは「追記」として後日談を書いたり、あるいは「ボツ版」も掲載しておいたので、比較してみると面白かろう。というかむしろ、併せて読んでこそ、「ゲーム業界の真実」の片鱗に触れる事が出来るのかも。
なお、雑誌掲載時には、榎本俊二さんのグレートなイラストが添えられていたのだが、こちらでは、スキャニングが面倒なので(汗)原稿のみの掲載になっている。
いつか榎本さんのOKを貰って、こっちにも載せようかしらん――というか、あの手のイラストは再録されにくいモノだから、ここに再掲しない限りはお蔵入りになってしまうのであろうか。榎本さんの尻やチンポを熱望する向きは、是非とも要望を寄せられたい。
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2004年07月09日
嘘六百・最終回/「レビューと市場と制作者と」(5)
遅まきながら、今年のE3の感想をば。
印象に残ったのは、アメリカのゲーム関係者に云われたこの言葉――
「日本市場って大丈夫? 食えてる? 無くなっちゃわない? いざとなったらアメリカで一緒に仕事する?」
余計なお世話じゃい! と、その場は軽口を叩いて終わったが、正直云えばありがたい申し出ではある。
昨年のGDCで講演して以来、私のような末端制作者にも、このようなお声が掛かるようになったのだから、今年のGDCで喋った多数の日本人講演者の方々にも、同様のお誘いが数多くあった事だろう。昨年、私が「同時通訳のテストケース」として人柱になったがために、日本人講演者が増えたのだとしたら、私のした事も意味があったのであるなあ、と密かに誇らしく思っている鶴見である――。
私はアメリカの制作会社と長年にわたって仕事をしている割には、英語が大の苦手だ。友人によれば、アルコールが入ると途端に流暢に喋り始めるとの事なので(笑)、6年以上もの英語教育によって、潜在能力は蓄積されているのだろう。潜在能力だけは。が、ミーティングの席上で飛び交う英語も、自分の関係しているゲームの内容しか解らないし、発言だってたどたどしいばかり――。
逆に云えば、こんな私が曲がりなりにも海外の制作会社と仕事をしていられるのも、ひとえに「ゲーム」であり「日本人」だからだ。日常英会話には不自由しても、「ゲーム」という共通の知識ベースを前提とした英会話ならなんとかついていけるし、何より海外のスタッフも、こちらの発言には、懸命に耳を傾けてくれる(ありがたい事だ)。彼らは依然として日本を――日本のゲーム業界に携わる人間の経験と考え方をリスペクトしてくれているのだ。市場としての日本が縮小したと云っても。だからこそ、私のような人間でもかろうじて仕事になっているのだし、もちろん貢献しているという自負だって、ある。
確かに現時点だけを観れは、好調な北米・欧州市場に比べて、日本市場は低調だ。ブランド市場化はいずこも同じだが、排他性が極度に強いのだ。全世界で大ヒットしたあのシリーズですら、日本での売り上げは数十分の1に過ぎず、続編だって出やしない。FPSだって売れない。実験作は無視されまくり。
――しかしそれは、あくまで「市場」としての話。制作者にとって「創造性」という点では、世界は地続き、共同体なのだ。
例えば、私が今回のE3で最も注目したタイトル『Donkey Kong Jungle Beat』。『ドンキーコンガ』のタルコンガを使った横スクロールアクションという、実にナイスなアイデアのタイトルなのだが、ご存知の通りこれは、『太鼓の達人』が巡り巡って転生した姿だ。そもそも日本のアーケードにカジュアルユーザーを呼び戻そうとして産み出された、極めてドメスティックなアイデアが、E3においてアメリカ人に遊ばれ、ひいては全世界のゲーム業界を豊かにする――これを「地続き」と云わずに何と云おう!
もちろん、ゲームの歴史上、こんな例は枚挙に遑がない。様々な文化を背負った多数の製作者が、時には「パクリ」、時には「コラボ」して、ゲーム業界という共同体に、ギリギリの状況からなけなしのアイデアを投入し、それがゲーム業界を発展させる――
――なんだかね、そんな事をつらつらと考えつつ、LAの夜景を見ながらPSパーティの会場で飲んだくれてたら、不意に涙ぐんじまった訳ですよ。それが今年のE3。
それでは皆さん、またどこかで!
つうワケで、2年にわたりドリマガで連載してきた嘘六百も、今回で終了。2年間で52回ってコトは、ちょうど隔週ペースだったのかな。終わり方がトートツな様な気もするが、「ドリマガがリニューアルするから最終回にしてくれ」とのオーダー自体がトートツだったので、まあしょうがあるまい。
ちなみに、最終回の原稿を渡したあたりで、編集ウメちゃんからは、「リニューアル後も、連載を別の形でやるかどうか相談したい。今度連絡する」と云われていたので、色々とオモシロネタをストックしておいたのだが、それ以来3ヶ月、いまだもって、何の連絡もないまま放置プレイ…。
とまあこの連載、ドリマガ読者にはウケは良くなかったようだが、ゲーム業界周辺には読者が多かったようで、反応も多数いただいている。といっても、大半がドリマガを購読せずに「会社で読んだ」だの「立ち読みした」だの、「WEBに再録されたのしか読んでないんだから、早くアップしろ」といった脅迫だの…なんつーか、俺の気持ちを一言で云えば、「買えよな」だ(笑)。ファミリートレーナーのCMか…
特に多かったのが、元セガネットワークの人間から届いた、失われてしまった「古き良きセガ」の記述に対する共感の声だ。
俺が在籍していた頃からすると、開発スタジオが分社したかと思ったら、また最近統合されたりと、セガの開発体制は二転三転している。
個人的には、世界最大級の大所帯から生まれる「超スケールメリット」こそがセガをセガたらしめていたと思っているので、今回の統合は大歓迎なのだが、願わくば、横のつながりを補強する「喫煙室」「リフレッシュルーム」の類をしっかり完備して欲しいものである(笑)。いやマジで。
最近、ミクシィなんぞで昔の知り合いと旧交を温めているのだが、たまに飲んだりすると、皆が皆、今のゲーム業界の在り方に不満を抱いている。それはもう、99%の人間が。
なのに、その不満がゲーム業界を動かすムーブメントになったという話は、ついぞ聞かない。不平不満は澱のように溜まっていくばかりだ。
もちろん俺も、嘘六百で提言めいた物をしてはいるものの、実際には無力な一業界人に過ぎず、そうした不平不満はぐっと飲み込み、本業にいそしむ毎日だ。
――本当にこれでいいのか?
――俺たちは、一生ゲームで食っていけるのか?
嘘六百は終わってしまったが、いつかどこかで再び、ゲーム業界の未来について考える場を持ちたいと思う。次は、視線を過去に向けるのではなく、未来に向けて。
その日まで、しばしお休み――読者の皆さん、またどこかで。
以下余談。
本文最後で今年のE3でのパーティについて書いたが、今年のPSパーティは凄かった。場所がなんと、ドジャースタジアムを臨む小高い丘で、このパーティの為に?2ケタ億円?かけて造成したのだそうな。
スタジアム脇の駐車場からトラムでトコトコ登っていくと、何本もの色とりどりのサーチライトが幻想的に夜空を照らし、今まで登ってきた方向をふと見下ろせば、LAの夜景! 過去に潜り込んだどのパーティよりも、盛り上がるロケーション。さすがアメリカ、パーティにかける意気込みが違う。
そんなパーティ会場での一コマ。
会場へと上がるトラムの乗り場で、チケットを持たずに乗ろうとして警備員に制止されてた日本人がいたので、誰かなあ、と顔を見たらばそれがまた、カプコンの辻本社長!(面識はないが、顔だけは知ってる)
――てな話を、会場に入ってすぐに会った佐伯雅司さんに話したところ、さっと顔色を変えて、どこかに携帯で連絡…それによって、辻本社長は無事入場するコトが出来たのだそうな。めでたしめでたし。
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2004年06月04日
嘘六百・第51回/「レビューと市場と制作者と」(4)
ゲーム業界の黎明期においては、制作者も販売サイドも、そして雑誌・ユーザーも一丸となって、クオリティと売り上げの格差を是正する方向に向いていたように思う。端的に云えば「クソゲーの駆逐」という共通認識があったという事だ。
そして逆説的ではあるが、そうした縛りがあったからこそ、制作者は安心してゲームの地平を広げようと、無闇矢鱈に実験作(つうか、クソゲー)を乱発できたという側面がある。革新的な物、完成度の高い物を作れば、売り上げ的にも名声的にも報われると信じて――。
しかし今や、クソゲーの定義は拡散し、制作者の技能によって対処できる範囲を超え、ゲームデザイン/プログラムデザインの失敗ではなく、ビジネスデザイン的な失敗作を云うようになってきている。制作者が職人的に高い完成度のゲームを作っても、ビジネスデザイン的に失敗すれば全く評価されず、それどころかクソゲー扱いされてしまう。
制作者の仕事が評価されない市場で、品質を上げ、多様性を開拓しようとする士気を、制作者はどうやって鼓舞すれば良いのだろう――。
前回、欧米ゲーム業界で話題の「パブリッシャー(販売会社)とデベロッパー(制作者)の対立」について、ほんのさわりではあるが、書いてみた。そもそも今回のシリーズは、ゲームのレビューについて苦言を呈するために始めたはずなのに、なんでそんな話をしているのか(しかも海外の話だぜオイ)解りにくい読者もいようが、しばしお付き合いを願おう。
対立――要は、ビジネスデザインを司るパブリッシャーが、デベロッパーに比べて大きな力を持っているがために、制作者=ゲームを作る才能を軽視する傾向にある、という事だ。それは、作るゲームの内容が、販売会社の意向によって大きく左右されるという意味でもあるし、もっと下世話に云えば、利益の配分においても販売会社の取り分が圧倒的に多いという意味でもある。下手すれば、売って貰えない場合すらある。生殺与奪の権を販売会社に握られた作り手のモチベーションは下がる一方だ。
云うまでもなく、ゲームは一般的な工業製品などとは違い、制作者の才能と汗と徹夜の産物。実体験として、制作者のやる気の低下はゲームの質の低下に直接的につながる。その意味では、販売会社も制作者も運命共同体のはずであり、制作チームのやる気の低下は販売会社にとっても見過ごせない問題のはずだ。なのに対立の凝りが放置されているという事は――導き出される結論は一つ。パブリッシャーが、(制作者が産み出す)ゲームの品質の低下を、売り上げに影響を及ぼさない取るに足りない要素だと見ているという事だ。
そして、そうした判断を許容しているのが、続編・版権物ばかりが売れる「ブランド市場」なのである。そうした意味では、これは対岸の火事――欧米だけの問題ではない。ブランド市場化は、日本を含んだ全世界的な傾向なのだから。
とは云え、私はブランドを否定している訳ではない(自分も続編をブランド化しようと目論んでいたりするし)。ただ、ブランド力を担保するはずの「品質」は二の次であり、ブランド力そのものこそが売りとなる「ブランド市場」というのは如何なものか、と云っているのである。それは先述の様に、ゲームの進化をストップさせる結果しかもたらさないからだ。そして進化の止まったゲームはブランドでしか選ばれなくなる――悪循環ですなどうも。
では、我々ゲーム業界に生きる者は、どうすべきなのか? それは次回にて。
タイトルのブランド化について思索を深めている昨今だが、それとリンクして、俺的にホットな話題が「ゲームのメディア化」だ。
「メディア」というのは、いわゆる「紙メディア」「電波メディア」等と同じく、伝える為の「媒体」というコト(そのまんまや)。
解りやすく云えば、「ゲーム」そのモノ自体の価値は相対的に低下し、ユーザーが受け取るイメージ全て――ゲーム商品だけでなく、宣伝とかコミュニケーションとか、そういった周辺一切合切も含めた「ゲームの上に載るモノ」こそが、市場的価値の主体となっている、というコトだ。
ここで唐突だがマンガを例に引く。
ちくま文庫の『「ガロ」編集長』(長井勝一)なんかを読めば判るんだけど、戦後しばらく、赤本マンガが飛ぶように売れた時代があった。それこそ、適当なマンガの断片(導入も無ければ、結末も無い!)をまとめて製本しただけで、内容なんかお構いなしに売れたのだ。人々が娯楽に飢えていた時代、「マンガという娯楽である事」そのもの故に、売れていたというワケだ。
私見に拠れば、ゲームも同様の歴史を辿ってきているように思う(ファミコン粗製濫造時代ってのは、まさに↑の轍や)。
そしてマンガ同様、大量のゴミの中から、エポックメーキングな名作がマンガの地平を広げ、それは市場の拡大をも推し進めてきた――。
――が今や、エポックであるコトと、売れるコトとはリンクしていない(ま、語意から云えば、十分売れなければ「エポックである」とは云えないワケだが(笑))。
さらに唐突だが、自動車を例に引く。
今や、「ドライヴィング・プレジャー」等というのは趣味の領域であり、売れる車の要素というものは、運転の快感や移動の便利さとは別次元に存在する。ぶっちゃけ、完成度の高い車が売れるとは限らず、商品としての車が、ユーザーにもたらしてくれそうな「生活のイメージ」と、そのイメージを刷り込む為の広告(の出稿量)に大きく拠っているワケだ。
(あー、自明な論をグダグダと書き連ねるのは面倒なので途中を大幅に割愛するが)
俺は以前、RPGジャンルの事を「ゲーム性という麻薬を点滴のように薄く供給しながら、ユーザー飽きさせずにお話を伝える、ゲームの体を為したメディア」と評した事があるが、今や市場において、ゲームという物全てが、そうした「媒体」であるかのように受け取られているフシがある。
そう、今やゲームにおいて、ゲーム性という「脳味噌へのご褒美」自体には商品価値が少なく、その上に載った、「お話」だとか「キャラクター」だとか、「エロ」とか「萌え」とか、そういった物こそが、商品価値の大部分を担っているかの様に見えるワケだ。
俺なんか「ゲーム性原理主義」の古い人間だからして、こんな状況には忸怩たるモノがあるワケだが、まあ、「ガロ」を発行してるだけじゃ、食ってけないのも事実。
そんなこんなで、健全なゲーム屋としては、続編モノばかり作って、自作のブランド化を目指すワケだ。
最近も、とある続編の台本をイタコと化して書き、さっき音声を収録してきたし)
それにしても、あらためて今回の原稿を読み返してみたけど、俺のやってる仕事ってば、大手パブリッシャーの(社員じゃないけど)プロデュース業務。もうね、どのツラ下げて、こんな原稿書いてるんだ!って内容だよね。
まあだからこそ、「コウモリ」の立場から、パブリッシャーもデベロッパーも並べて、論ずるコトが出来るってワケなんだけど。
オープンカーは、屋根を開けてこそ、オープンカー。
「オープンカーというイメージ商品」が売れても、屋根を開けない「陸オープン(おか・おーぷん)」な野郎が
蔓延しているようじゃ、面白くないし、未来もないよね。
(と、この項は散漫なまま、了)
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2004年05月07日
嘘六百・第50回/「レビューと市場と制作者と」(3)
おおなんと今回でこの連載も第50回!
思い起こせば、2002年のE3直前からスタートしたのだから、ぴったし丸2年。本当に色々な事がありました。私が原稿を落とした事もあったし、榎本さんが画稿を落とした事もあった(それも私の所為で…)。編集ウメちゃんからNGを喰らってムカツキながら書き直した事も、私の知らない間に表現を勝手に直されていた事も、今となっては良い思い出――じゃないよ、ウメちゃん!
特に明記はされていないが、署名原稿の©は筆者に帰属するのが当然だ(でなければ、本職の私がゲームのアイデアなんて書けない)。なので、筆者=著作者の意向を無視した修正は「改竄」だと云える。しかし一方で、パブリッシャー(出版社)は原稿の依頼主であり、雑誌にも雑誌の方針がある。編集の意向に馴染まぬ原稿に対して修正を要求したり、最悪の場合、掲載を拒否するのもまた至極当然。共に雑誌を創り出すパートナーといえども、立場の違いから対立する場合だってあるのだ――。
――というのは、実は単なる前フリ(ウメちゃん驚いた?)。同様な対立が、実はゲーム業界にも存在するのだ。
欧米のゲーム業界では、最近、デベロッパー(制作会社)とパブリッシャー(販売会社)との対立が、深刻な問題として話題になっている。それを顕在化させたのが、私も長年一緒に仕事をしている、ノーティドッグ社長、ジェイソン・ルビン(クラッシュ・バンディクーの産みの親)。彼は今年のD.I.C.E.サミット(米国のゲームクリエイターが集まる学術会議系イベント)で、まさにその対立について熱く講演し、全米の開発者達のハートを鷲掴みにしたのだ。
ジェイソンの主張を一言で要約すれば「ゲーム業界では、デベロッパー=ゲームを作る才能が、パブリッシャーによって軽視されている」というもの。いやこれは、彼がSCEに軽視されているという意味ではなく(本人もキッパリ否定している)、近年のゲーム業界を俯瞰して眺めると、ゲームがあたかもビールなどの「イメージ商品」のように、宣伝力やブランド力によって売れる物として扱われているのではないか、そう導いて来たのはパブリッシャーではないか、これはゲーム業界にとってまずい風潮ではないのか!?――という意味だ。
実はこれ、私が前々回以来この連載で書いてきた「完成度と売り上げの相関が崩れている」という主張とも符合する。確かに今や、売れるのは版権・続編物ばかりであり、ゲームデザインよりもビジネスデザインが重視される風潮にある。良いゲームを作る才能は無視され、上手いビジネス・スキーム(=儲けの仕組み)を考える人間がもて囃される。本来ならゲーム作りの才能によって推進される(talent driven)べき業界で、肝心の才能が軽視されていたのならば――新しい才能は集まらず、商品は陳腐化し、ユーザーは飽き――その業界に未来はないだろう。
ジェイソンの主張はこの後、開発者コミュニティの必要性と、それを模索するため、次回作を最後に社長を辞任するという爆弾発言に続くのだが――
今回の原稿も、ちゃんと載ってますか?
載ってたなら、次回もこの続きで。
原稿を送った後に担当編集のウメちゃんから、本文中の「でなければ、本職の私がゲームのアイデアなんて書けない」という表現について、意味を尋ねられた。
いやホラ、俺はこの原稿に、ゲーム企画に属する内容を書いてたりするワケじゃん。ときメモオンラインとか、宝探しオンラインゲームとか。あの手のアイデアって、ちゃんと企画書にまとめれば、嘘六百での原稿料の10倍ぐらいのギャラが稼げるワケね。買い取りの場合。その後、契約に発展すれば、さらに数十倍(作業も発生するけど)。なんで、それで食ってるプロとしては、著作権が筆者に帰属するんでなければ「やってられない」のだ。
ところで先日、『Beep』の復刻版が出版されて、そこそこ売れたそうだけど、旧ライター陣には一切ギャラは払われていない。
日本では、ライター仕事ってちゃんと契約を交わさないけど、これって実は…どうなんだろ?
まあ、ゲーム紹介の記事に著作権を主張するつもりは全くないし、コラム系の原稿は、著作権こそ著者に帰属すると思っているものの、ギャラを要求するつもりは全くない。なかった。シロウトに毛の生えたような学生ライターの、修行中の原稿なワケだし。
だが――復刊記念の飲み会が、編集ウメちゃんの仕切りで開催されたのだが、そこでの飲み代ぐらいは、ソフトバンクで持って欲しかったよ(笑)。
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2004年04月23日
嘘六百・第49回/「レビューと市場と制作者と」(2)
さてさて。前回は山村モヘップ(12)が十数年ぶりに登場して、「クソゲーなんて、無いんです!」とブチ上げ、終いには「評価なんて要らないのでは?」と、ゲーム雑誌にあるまじき問題発言を連発したものだから、各方面――殊に赤坂界隈で話題騒然なのだそうな(ちなみに、赤坂にはSCEとソフトバンクPがありますな…笑)。
――なんて他人事の様に語っているが、モヘップ(12)は私の別人格なのだから、これは私の考えでもある。で今回は、モヘップ的に言葉足らずだった部分を補足させていただこう。
私はここ2~3年、こんな考えを持ち続けている――どの雑誌にも見られる、「点数付きショートレビュー」(勝手に名付けてみた)だが、最早あれはユーザーにとっての「購入指針(バイヤーズガイド)」足り得ていないな、と。
その証拠に、(モヘップにも書かせたが)ひと昔前であれば高評価のゲームは満遍なく売れていたものだが――だが今や、評価点と売り上げ本数の相関は大きく崩れているように見える。
それを端的に表しているのが、販売店サイドの声だ。我々は受注の際に、販売店の方々にアンケートを行うのを常としているが、最近では「雑誌の評価が高くても、それだけでは発注を増やせないし、逆に評価は低くても売り上げの堅い物がある」と、皆様口を揃えて仰る。ユーザーに最も近い方々のコメントだけに、根拠としては十分だろう。
斯様に、市場の消費動向と離れてしまった「ショートレビュー」ではあるが、私はなにも、止めるべきだと云いたい訳でもなければ、雑誌の編集方針を非難するつもりもない。確かに私も一読者として面白く読んでいるし、人気ページなのも理解出来る。
だが、その人気の理由が、本義である「購入の際に役立つから」ではなく、「ジャスト・フォー・ファン」――単に読んでいて面白いからに過ぎず、点数付けそのものが自己目的化しているのならば、ゲーム業界的な意義は極めて薄いのではないか?という事だ。
私は、レビュー即ち批評の意義は消費者の教化と制作者の評価にあると考える。「教化(カルティベーション)」と云うと硬く聞こえるが、要は「掘り起こし」。よく出来たゲームは、こんなに面白いんですよー!と読者に伝える、バイヤーズガイド的な側面だ(それが崩れているのは上記の通り)。そして評価はもちろん、ゲーム制作の技法を吟味検証する側面――なのだが、ここまで複雑化巨大化したゲームを、短いコメントで吟味検証できるものなのだろうか?
ところで実は私、過去に嘘六百で「雑誌レビューに物申す」的な文章を2度ほど書いて、2度ほどボツをくらっていたりする。ゲーム雑誌上でレビュー批判をするというのは、云ってみれば身内に刃を向けるようなもので、かなり繊細な問題だからだろう。その辺りの経緯とボツ原稿は、六百デザインのサイトに再録してあるので、御用とお急ぎでない方はぜひ読んで欲しいのだが――
今回の原稿、ちゃんと載ってますか?
もし載せてもらえていたなら、次回もこのネタを掘り進める事にしよう。
えー、前回のボツ版、前々回のボツ版とを読めばわかるように、俺は雑誌の点数付きショートレビューというモノに、かなりな不満を抱いている。
いや、面白いコトは面白いのよ。特にファミ通のクロスレビューとかね。あれは一種の発明(オリジナルは音楽雑誌かなんかだっけ? でも、ファミ通はエポックメーキングだ)。点数付けとか評価付けって、眺める分には面白いじゃない。でもそれは、本文中でも書いたように「点数付けの自己目的化」に過ぎないわけでさ。
つうか、最初から購入対象にしてる人間以外は、点数しか見ないじゃない。併記されたショートレビューって、情報としては完全にサブの立場でさ、いわば「これは批評だから、好き勝手やるぞ! 文句云うんじゃねえ」っていう言い訳というかアリバイというか、そういうモノに成り下がってる。読者に突き刺さらないし、掘り起こせないし、ヌルくてテキトーな文章でも容認されてる。ように思える。
ところで、連載時にエノモトさんがイラスト上で、
「ショートレビューを書くのなら、最低でもクリアしてからにしろ!」
といった意見を披露していたけど、制作者としての俺の考えは全く違う。
考え方としては、ざるの会の5つの誓いで書かれている内容がいちばん近いかな。いわく、
「よく、「ゲームはエンディングまで遊んでから評価しろ」という一見正論のような暴論を目にしますが、我々は「ゲームの構造」から導かれる面白さを頭の中でシミュレートする訓練をつんでいるので、まず遊ばずに評価します。」
企画屋ってのは、企画書・仕様書の段階で面白さを設計する仕事だからして、「このゲームが、どんなターゲット層に向けて、どういうゲーム性を提供しようとしているのか」これが見切れた時点で、そのゲームの「面白さ最大値」は測れちゃうワケね。
あとは、最初の1時間だけを遊んでみれば、プログラマやデザイナの力量とか、プロジェクト運営の能力とかも測れちゃうんで、先の「面白さ最大値」との掛け算で、ほぼ誤差ナシでゲームを評価できちゃう、と。
もちろん、これだけではゲームの「作品性」そのものを評価出来ないという欠点はあるし、エノモトさんが云う「クリアしてからレビューを書け」という意見の根本も、そこにあるんだと思う。ユーザーのゲームに対する「思い入れ」に関わる部分ね。
だけど、そこは「職業的ショートレビュアー」の仕事の範疇ではないだろう、とも思っている。
具体的に例を挙げれば、『ラチェット&クランク』とか『クラッシュ・バンディクー』だ。
この2シリーズは、子供層に特化した面白プロモーション(クリエイティヴ、と言い換えても良い)を、ゲームソフトそのもの以外にも、大量に世に出している。クラッシュの「伝説の1分CMシリーズ」のキチガイっぷりや、昨年、おはスタでは2週にわたって放映した「ラチェット in タイ」のバカっぷり。それらを観たレビュアーなんて居るのだろうか? それらを日常的に目にしている子供達の脳内において、ラチェットは、『ラチェット&クランク』という一ソフト以上の広がりをもっている(はず)。
まあ、大っきなオトモダチにとっての萌えゲームも似た構造なんだけど、そうした広がりをショートレビューで評価する術は、もちろん、無い。せいぜい、「ファンにはオススメ」とか、知ったような紋切りワードでくくるのがせいぜいだ。WEB上でググれば、思い入れたっぷりの「読ませる」個人的レビューが氾濫している今、ショートレビューで採り上げる範疇ではない、というコトでもあるけれど。
ちょっと話が拡散しちゃったけど、まあナニを云いたかったのかというと、「ショートレビュー必要ナシ」ま、そーゆーコトです。
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2004年04月09日
嘘六百・第48回/「レビューと市場と制作者と」(1)
読者の皆さん&エノモトさん、初めまして。山村モヘップ(12)と申します! ドリマガのご先祖サマにあたる「Beep」の復刻版が出るとのコトなんで、それにあやかってボクも、図々しくフッコクしてみました(笑)。ご存知ない方ゴメンナサイ。
思えば、ボクがBeep誌の『私が悪うございました』という連載で、「日本初の中学生ゲームレビュアー」としてイッセイをフウビしたのって、もう18年も前のコトなんですよねえ…。え? じゃあオマエは今、30歳のオヤジなのかって? イヤだなあ、ボクは架空の存在だから年はとらないんですよっ、プンスカ!
そして実は、当時も架空の存在を利用して、辛口レビューで言いたい放題。5段階評価で1点をつけたコトだってあるぐらいです。今だったら「大人の事情」で、とても考えられませんよねー(笑)。
でもホラ、ソフトメーカーさんだって、中学生のタワゴトにワザワザ文句つけるような、オトナゲナイ振る舞いはしないワケですし…仮に文句をつけられて、「オマエの雑誌には画面写真もサンプルROMも送らない!」なんて言われたとしても(そういう事件ありましたね)、ボクがクビになって学業に戻れば済む話ですし…モヘップお主もワルよのう、いえいえお代官サマこそ、ってなモンですよ。…ズルいですね、ボクってば(笑)。
でも当時のボクは、「正当な理由に基づく辛口評価こそが、ゲーム業界の発展のためになる!」ってホンキで思ってたんですから…青かったんですよねえ。
昔、レイメイ期のTVゲームは、技法的にも未熟なモノが多くって、それこそクソゲーの山だったように思います。だから、読者の方がクソの中からダイヤを探す手助けをする意味でも、あるいはクソゲーの淘汰を促す意味でも、「12歳レベルの」辛口評価が機能していたと思うんです。
でも今や、ゲームの制作技術は成熟し、一定レベルに達しています。極論すれば…
クソゲーなんて、無いんです!
だって今、新作ゲームを完成度で選んでいるユーザーなんて、いないじゃないですか。完成度が高く、雑誌の評価が高くても売れないゲームなんて、ゴロゴロしてますよ。ユーザーの購入基準は、たいがい「自分の好みのツボにどれだけピッタリ合ってるか」それだけ。
なら、評価なんて要らないのでは?
少なくとも、点数+百文字程度の「12歳レベルの感想」(ボクにはそう見えます)を付けるだけで「これが評価でござい」としているゲーム雑誌の現状は、ボクが原稿を書いていた頃から全く進歩してませんし…今のゲーム業界に必要なモノとは、大きくかけ離れてるんじゃないかって気がします。
ボクの好きな言葉に、こんなのがあります。「ゲームにクソゲーはない。マイナーゲームがあるのみ」。もう、完成度の高いマイナーゲームと、完成度に関係ないメジャーゲームを同列に比較するの、ヤメにしません?
――なんて、久しぶりに登場して好き勝手なコトを言ってしまい…
私が悪うございました
復刊ドットコムで圧倒的な票が集まったので「Beep」が復刻したのだそうな。
ホントは、復刻版の方にも原稿を頼まれていたんだけど、出張や何やかやで時間が取れなかったので、そちらは諦めざるを得ず、ドリマガ通巻300号記念に寄稿した文章を再掲してもらうコトにして、その代わり、嘘六百の方で山村モヘップ(12)を復活させたのであった。
そして、モヘップに書かせるんだったら、やっぱり「辛口原稿でしょう!」と、過去2回にわたってボツにされた(第15回ボツ版 | 第39回ボツ版)
雑誌のレビューについて書こうと思い立ったワケだ(雑誌レビュー不要論については、またいつか書く予定)。
今回、レビューについての掲載できたのは「一歩前進」だと云えよう。
だがしかし、原稿で「12歳レベルの感想」と書いた箇所が、掲載時には「12歳レベルの」を削除されてしまったので、俺的には依然としてオカンムリ状態は変わらず。この辺りも、いずれ突っ込まねばなるまい。
ちなみに、山村モヘップ(12)の、年齢付きペンネームの由来は、推理作家・山村正夫氏が弱冠18歳でデビューし、その時に「山村正夫(18)」と表記されていたコトから来ているのではないか、と推測しているのだが、真実は、モヘップの(そして芋吉の)名付け親である、元「Oh! Hitbit」誌編集の西澤氏以外は知る由もないのであった――。
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2004年04月02日
嘘六百・第47回
今回は久しぶりに、セガ時代の昔話でもする事にしよう。
あれは1993年頃の事だったろうか。まだ私が1研(当時)の企画課に所属して、アーケードゲームを作っていた頃の事だ。以前にも書いたが、私は喫煙室に筆記用具一式を持ち込んで仕事をするのが当たり前な程の不良社員だったので、喫煙室に出入りする人間とは部署を越えて仲良くなっていたものだった。
そんな「喫煙室メンバー」の一人に、隣の部署、すなわち鈴木裕さんの下にいる若手企画マンがいた。私より1年後輩で、「企画を必要としない超プログラマ集団」と噂されていた裕さんの部署に、初めて企画として採用された切れ者――のはずなのだが、見た感じはそんな雰囲気を微塵も感じさせない、タレ目で感じの良い、悪く云えば要領の良さそうな若者だった。彼は煙草は喫わないのだが、喫煙室で日夜交わされるフリートーク(という名の「バカ話」)に参加するため、休憩の度に訪れていたのだろう。
喫煙室である日、彼は私に、こんな相談を持ちかけてきた――「MCハマーでゲーム作りましょうよ!」。
ちょっと説明を要するのだが、MCハマーというのは、今でこそすっかり忘れ去られてしまったが、当時は非常に人気の高かったヒップホップのミュージシャンだ(なんでも今は宣教師をやっているらしい)。そのMCハマーのキャラクターライセンス版権をSOA(セガ・オブ・アメリカ)が取得したので、日本でも作らないか、というオファーが来たのだ。
彼は、マイケル・ジャクソンのゲームを作った私の経験に目を付けたのだろう。それは正しい。彼と私は喫煙室でブレストを重ね、こんなゲームの企画をまとめたのだ――アップライト筐体に、シンセドラム用のパッドを付け、それを叩いて操作するゲーム。流れる曲のリズムに合わせて叩けば、画面上のMCハマーが華麗なダンスを披露するダンスゲーム――そう、今で云う「リズムアクションゲーム」だ。
しかし――我々のプロジェクトは日の目を見なかった。手の空いているデザイナーに筐体のイメージ画を描かせ、コスト計算をし、OHP資料を作って、社長プレゼンまでやったのだが、我々のプロジェクトにGOサインは下りなかった。
私は、彼――現SEGA-AM2社長の片岡と共に、「こんな事もあるさ」と、上層部の頑なさを愚痴り、各々が別の仕事に戻っていったのであった。
で、ここで話は唐突に現在に飛ぶのだが、来週のGame Developers Choice Awardで、おなじみ松浦雅也さんが、革新的なゲームで業界に貢献した事に対して贈られるFirst Penguin Awardを受賞する。もちろん、パラッパラッパーで「リズムアクションゲーム」というムーブメントを産み出した業績が評価された訳だ。
私も選考委員の一人として投票したし、松浦さんの業績にけちをつけるつもりはない。だが、もしあの時、MCハマーのゲームがプロジェクト化されていたら――そんなIFを考えながら投票した鶴見なのであった――。
えー、今回のイラストは、ワタシが描きました。理由は、イラスト中に書いた通り。

しまった! 「イエーイ」って入れるのを忘れてた!!(汗)
今回は、〆切間際に原稿を入れたものだから、エノモトさんの方にしわ寄せが行ってしまったのでした。
本当に申し訳ありませんでした>エノモトさん
イラスト中にも書きましたが、今度オゴりますから。
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2004年03月19日
嘘六百・第46回/「新ハード」(完)
「ユビキタス」という言葉がある。ラテン語の「いたる所に遍在する」という言葉を語源に持つ単語だが、21世紀に入ってからコンピュータ用語としても頻繁に使われるようになったので、読者の皆さんもどこかで目にしている事だろう。
まあ、そろそろ「マルチメディア」とか「バーチャルリアリティ」と同様に死語の仲間入りをしそうではあるのだが、いやいや、なかなかどうしてこの言葉、前回書いた「エンターテインメントコンテンツが、ネットワークに溶けてゆく」という最近の状況を、上手く説明してくれるのだ。
遍在――即ち、コンピュータなりネットワークなりが、「空気の様に、衣服の様に」あらゆる場所に存在し、いつでもどこからでもアクセスできる、というような意味だ。
ユビキタス・コンピューティングの提唱者は、これを「第3の波」と位置付けている。第1の波は、大型コンピュータを複数人で共用する事。第2の波は、一人が1台ずつのコンピュータを占有する事。そして第3の波は、複数台の携帯機や据え置き機などの連携し合ったコンピュータ群に、一個人が取り囲まれる環境を指す。
これ、何かに似ていないだろうか? ビデオゲームの歴史・プレイスタイルの変遷に似ているのだ。
過去、ビデオゲームはゲームセンターで遊ぶ物であり、ゲーム機を複数人が共用して遊ぶのが普通だった(第1の波)。それが、ファミコンの誕生と共に、ゲームは一家に1台、一人に1台となり(第2の波)、そして今や、ゲーム業界も第3の波を迎えようとしている。
据え置き機がインターネットに繋がるのは、もはや当然であり、携帯機もワイヤレスネットワークを使って、そこに連動する――「ユビキタス・ゲーミング」時代の到来だ。
だって、そりゃそりゃそうだろう。ビデオゲームもまたコンピュータの申し子なのだから、コンピュータ世界の潮流と歩を一にするのは、実に自然な成り行きなのだ。そして、そこから生まれる新しい波は、ユーザーを再度ゲーム習慣に引き戻し、ゲーム消費も活性化、小売店もメーカーもユーザーも万々歳。おお、何とも良い事ずくめじゃあないか我が軍は!
――個人的には、この状況を「やっとここまで来たか」という気持ちで眺めていたりもする。
過去、ゲーム機がインターネットに繋がり始めた頃、話題はMMORPG一色だった。私も一時期、MMORPGに魅力を感じ、下調べを進めていた時期がある。だが、思考実験の果てに明らかになったのは、MMORPGが、プレイヤーをゲーム機の前に縛り付けるタイプのゲームであり、「遍在」という明らかな未来から逆行しているという事だった。
そして、ゲーム業界がMMORPGに拘っている隙間に入り込んだのは、そう、携帯電話のゲームアプリ。貧弱なインターフェースに、薄いゲーム性――でも、時代の流れに合っていたからこそ、勢力を急激に伸ばしたのは、ご存知の通り。
しかし私は予見する。今年から続々と現れる新ハードが、再び未来を目指し、携帯電話をも飲み込み、復権を果たす事を!
今年のE3が楽しみですなあ!
2月から3月にわたって、ドリマガがいつもと違う週刊ペースで発売されたもんだから、今回のシリーズ「新ハード」は無茶苦茶大変だったよ、もう。ちょうど『JAK2』の公式サイトにも毎週コラムを書かなければない事もあったから、俺の本業はライターかっ!?ってな勢いで、毎週シコシコ文章書いてたっけ。
正直、「嘘六百」は苦労の多い仕事だ。
何が大変と云って、規定字数内に収めるのがいちばん大変だ。下手したら、内容を書いた後、倍ぐらいの時間をかけて削ってたりする。かかる時には、丸一日費やしてたりもするワケだ。半ページのコラムなのに。時給換算で云ったら吉野家の深夜バイトと、どっこいどっこいかも?
そして、「妄想篇」と銘打っている割には、案外と気を使って書いてたりもする。なにせ、鶴見六百という名前を出しているワケだから、この手の「業界観測」的な題材の場合、業界の人間に笑われるような、トンデモな内容は書けないのだ(あ、笑われるではなく「笑わせる」は可…笑)。
そんな苦労の多い「嘘六百」だが、とはいえ、定期的にこうした文章を書くのは、思考トレーニングとして大いに役立っている。それは間違いない。ゲーム制作に集中していると、業界を俯瞰する視点が持てなくなりがちだが、この半ページがあるが故に、俺は俺として、一本スジを通して自分を見失わずに業界で生きていけるのであるなあ、という感じか。それは言い過ぎか(笑)。
なんにせよ、〆切の強制力はありがたいコトです。
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2004年03月12日
嘘六百・第45回/「新ハード」(3)
ソニーのワイヤレス液晶TV「エアボード」の新機種が3月に発売になるそうだ。
これは何かというと、ブロードバンド回線を通じて、自宅のテレビを試聴できるのだという。つまり、自室に置いてあるチューナーやHDレコーダー、DVDなどの映像コンテンツを、外出先のワイヤレスLAN環境のある店で――例えばモスバーガーで、お気に入りの匠味レタスを食べながら、観る事だって出来ちゃうのだ。
もちろん無線環境が無くとも、LANケーブルで接続する事だって出来るから、学校だろうが会社だろうが、出張先のサンタモニカのホテルだろうが、回線さえあればOK。要は、自宅の映像サーバーにアクセスできる携帯端末だって事だ。
この製品、正直、ソソられてる。買っちゃうかもしれない。
私は最近、TVをとんと観ない人なのだが、かといって観たくないわけじゃない。連ドラだって興味がある。ただ、毎週決まった時間を家で費やすという視聴習慣が無いだけだ。仕事中でも出張中でも、細切れに空いた時間は山ほどある(もちろん、マスターアップ直前以外だけど)。そこでTVが観れるとなれば、そりゃあ観ちゃうでしょう。
ましてや、最近流行りのHDレコーダーなら、わざわざTV番組表から録画予約するなんて手間無しに、自分が興味のあるキーワードを入れとくだけで勝手に録画してくれるってんだから。そういえば、今度のエアボードはPSXとの連動もラクチンらしいしね――
――ってちょっと待った。PSXと連動するってんなら、外出先でPS2のゲームが遊べてもいいんじゃないの? コントローラ付き携帯端末から、家庭のPSXを遠隔操作出来ないの? それこそ求められている「携帯ゲーム機」じゃないの?
TV映像もゲームも、エンターテインメントコンテンツというくくりでは等価だと云える。違いは「60分の1秒のインタラクティヴィティ」を必要とするか否かだけだ(それさえも、作り方によっては如何様にもなりますな)。
PSXとエアボードによって、映像コンテンツがネットワークに溶けていき、どこからでもアクセス出来るようになろうとしている今、ゲームコンテンツがネットワークに溶けていくのもまた、自然な流れではないだろうか。
ゲーム自体はネットワーク上に遍在し、それを、家庭用の認証&PROXYゲームサーバーにキャッシュしさえすれば、後はそのコンテンツにどこからでもアクセスできる、という形態。認証されたPCや携帯電話からアクセスさせても良いだろう。ゲームセンターから付加価値込みてアクセスさせるのは必須だろう。
――そしてこれこそが、私が先般来書いている「ゲーム習慣と社会生活を両立させる」新ハードの条件と合致するのではないだろうか。
ところで、神に誓って(というか機密保持契約に誓って、か)云うのだが、私は未だPSPの仕様をよく知らない。なので、PSPにPSXやらPS3と連動する機能が付くことを(一般ユーザーと同様に)祈ってるんだけど――
どうなんでしょう、久夛良木さん!?
本誌連載時には、本文中の「視聴習慣」という言葉を「試聴習慣」と、誤って書いてました(汗)。
うー、遺憾。最近どうも書き間違いが多くてイカン。ああ恥ずかしい。
自分の誤記を棚に上げて云うならば、編集者に見つけてほしかった。たのむよ、うめちゃん。
それはともかく。
エアボードでは、液晶表示部からベース部の汎用赤外線リモコンを操作できるので、もし、この汎用赤外線リモコンがPS2(に限らず、接続されたゲーム機)のコントローラを操作できるのであれば、マジで携帯ゲーム機の出来上がりだ。リアルタイムゲームには向いてないけど、RPGなんかだったら全然OK。PS2のPS互換どころではなく、既にソフト資産が蓄積されている超メリット。それどころか、GCだってXBOXだって遊べちゃうヨ!
でも、エアボードにはそんな機能、付いてないんだよね。惜しいなあ。
どうにかしてよ、久夛良木さん。
あるいは、ホリ電機あたりが、そんなコントローラを作れば、密かなヒット商品になりそうな気もするんだけど、いかがなもんでしょう。
ところで、今回の原稿には、意図的に外したトピックスが2つある。それは――
ネットワーク上にエンタテインメントコンテンツが溶けていくのだとしたら、極論すればパッケージは要らなくなってしまう――という真っ当な未来像。
そしてもう一つは、携帯電話という存在だ。
次世代のゲーム機は、明らかに携帯の進化と合流するんだろうけど、でも、携帯にイニシアチヴを握られたくない、そう思ってる。
いや実は、俺は携帯電話中心のゲーム習慣って嫌いなのよ。パッケージレスも、携帯電話のアプリでは既に一般化してるけど、なんだか、ゲームというコンテンツの価値を低下させてるっつーか。携帯電話サイズのゲームが、ゲーム業界のメインになっちゃったら、大作なんて生まれないよ。市場規模も相当縮小しちゃうよ。食ってけないよ。
それよりか、ホームサーバーと連動する携帯端末、という未来の方が、ナンボかましな気がするんだけど、どうだろう。
そのあたりを突っ込まれた時の保険として、いちおう「家庭用の認証&PROXYサーバー」という文言を入れておいた。そこまで深読みするヤツぁいないだろうけどさ(笑)。一口に云えば、携帯上で「安い物を買う」のではなく、据え置きホームサーバーに「高い物をインストールする」というイメージだ。
あとは、ゲームセンターとの関わりについても書かねば――。
※参考(06/06/21)→「PS3復活の方法」
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2004年03月05日
嘘六百・第44回
古人曰く「李下に冠を整さず」
李《すもも》の木の下で帽子をかぶり直していると、まるで李を盗んでいるかの様に見えて疑われてしまう=疑われそうだと判っている行為を慎まないのはバカモノだ、の意
とは謂うけれども、あえて渾身の力を込め、帽子をかぶり直す大バカモノになりたい時だって、ある。
――何の話か。実は「Game Developers Choice Award」の話だ。今回は、新ハードの話を1回中断して、このアワードの話をさせていただきたい。
ちょうど1年前、この連載の第21回でもChoice Awardの話題に触れたのを、皆さんは覚えているだろうか。
このアワードは、一言で云えば「世界中のゲーム制作者が投票するゲーム賞」。売れたゲームに票が偏りがちなユーザー投票の賞とは違い、こちらは歴史こそ浅いものの、プロの目から見て「革新的」で「優れた」ゲーム(あるいはクリエーター)を選び出す事には定評がある賞だ。
中でも、昨年「携帯ゲームの父」故・横井軍平氏が、ゲーム業界に多大な貢献をした人間が受けるLifetime Achievement Award――特別功労賞(私に云わせりゃ「生き様賞」)を受賞したのは、皆さんの記憶にも新しいところだろう。
英語圏が主体のアワードで、まさか横井氏が受賞するとは――あれには日本中が度肝を抜かれ、同時に快哉を叫んだのではないだろうか。「外人、粋な事しやがる!」と(笑)。
で――既にニュースで御存知の方も多いだろうが、今年の「生き様賞」を、この連載でも採り上げた「ガチャっと切って、ピカっと閃く」盟友マーク・サーニーが受賞した(する)のだ。
この選出に、誰が文句をつけられよう。二十歳前から「マーブル・マッドネス」をはじめとした、ビデオゲームの古典とも云える名作を創り出し、セガ時代には「ソニック2」、ユニバーサルでは「クラッシュ・バンディクー」や「スパイロ」を自らのリーダーシップで大成功させ、さらにはPS2のシステム開発にも携わり、そして「ジャック×ダクスター」や「ラチェット&クランク」では、システムプログラムとゲームデザインのコンサルタントを務め――選考委員会でも異論は一切なく、満場一致で決定したのだった、「彼こそが相応しい」と。
――なんで選考の様子を私が知っているのかって?
いやね…実は白状しちゃうと…今年は私も、19人いる選考委員の中の一人だったりするのですわ(汗)。
なので選考中、色々な考えが頭を過ぎって、マジ葛藤。「よりによって俺が選考委員になった年にマークが選ばれたら、身内ビイキって非難されちゃうかなあ。俺がノミネートした訳じゃないけど、せめて投票は棄権すべきかなあ」とかね。
でも、身内だからこそ誰よりも解る、彼の凄さ。お手盛りだヒイキだと誹られたって構わない。李の木の下で、帽子をブンブン振り回す大バカモノとなって叫んでやろう、「マークこそが相応しい!」。そう考えた私は、正々堂々胸を張って、彼に一票を投じたのであった――。
おめでとう、マーク!
というワケで、Mark Cernyが今年のLifetime Achievement Awardを受賞するコトは1月の時点で判っていたんだけど、やっと情報解禁の運びとなりました。何がツラいって、Mark本人にも秘密にしなきゃいけなかったのがツラくて(笑)。
ちなみに今回、嘘六百以外にも、JAK2日本版公式ページでもMark受賞の報について書いたし、IGDA東京支部にポストされた、受賞報の日本語訳も書いたのであった。それぞれの原稿ごとに自分の立場が違うから、ちょっと混乱気味だったかも(わはは…笑)。
やろうと思えば、この賞の発表に合わせてJAK2を大々的にプロモーションする、というのも出来たんだろうけど、発表時期はアメリカのIGDA次第だったので、イマイチ上手く連携できなかったかな。うーん残念。
でも、連携があまりに上手く行きすぎてたとしたら、それはそれでインサイダー疑惑が持ち上がっていたのかも(笑)。
ところで、直後にMarkと飲んだ(のみゅにけーしょん!)んだけど、Markは俺が選考委員をやってたのは知らなかったそうです。
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2004年02月27日
嘘六百・第43回/「新ハード」(2)
前回の最後に、新ハードの条件として「ゲーム習慣と社会生活の両立」と書いた。今回はその辺りを掘り下げてみよう。
「TVゲーム離れ」が叫ばれている。
前々回にも書いたが、今やソフトの市場規模は大幅に縮小し、メーカーも小売店も青息吐息で毎日を生きながらえている(という表現がぴったりだ)。確実に数字の見込める「大作」が発売されない時期は、売り上げが大幅に落ち込み、まさに死活問題。ついでに云えば、合コンで高めのおねーちゃん達に「ゲームぅ? キモーイ!」などとほざかれるのも、個人的にかなり死活問題(笑)。
ゲームの質が落ちていない事は、ゲーム業界の一員として、自信を持って断言できるのだが――我々に一体何が足りないというのだろうか!?
そもそもゲームという物は、快感に依拠した「習慣性のある嗜好品」だ。その意味では、煙草やパチンコに似ている。学校帰りにゲームセンターに行く習慣の学生集団は、特にお目当てのゲームが無くてもゲーセンに通うだろうし、毎晩TVの前に座ってコントローラを握る習慣の人は、ゲームのエンディングを見た直後、すぐさまこう考えるだろう「さて、次は何をやろうかな」と。
ゲームというのは、理性というより、惰性(!)で遊ぶ類の物であり、生活習慣に沿ったソコソコのゲームの方が、生活習慣になりにくい優れたゲームよりも、遊ばれやすいという傾向がある。それは携帯電話のゲームが人気を得ている現状をみても明らかだ。定期的に遊ぶ事によって、快感の記憶が常にリフレッシュされてゆき、習慣は継続されてゆく――。
1994年、SCEがプレイステーションによって「ゲームのある生活」を提案し、ファミコン以降は断絶していたライトユーザーにも、ゲーム習慣が根付いた――かに見えたが、高い年齢層の人間ほど、生活習慣は保守的にならざるを得ない。ユーザー年齢層が上へシフトするにつれ、可処分時間は少なくなり、ゲームを遊ぶ「間」が空いてしまい、快感の記憶が薄れ――現在の「ゲーム離れ」傾向を引き起こした、というのが私の見方だ。
ちなみに、以前書いた「大人はオンラインゲームをするな!」の根拠もここにある。可処分時間を食いつぶすMMORPG習慣は、社会生活と真っ向から対立する。キラーコンテンツに成り得ない事は明々白々だ。
で――実はこのような「ゲーム離れ」の危機は、過去に何度も訪れていたりする。が、その度に、「画期的(エポックメーキング)なゲーム」がブームを起こしては、ユーザーをリフレッシュし、ゲーム習慣に引き戻し、ゲーム離れを防いできたという歴史的経緯がある。
もちろん私も、ソフト制作に携わる者として、そのような「画期的な」ソフトを目指してはいるのだが――正直、今回のゲーム離れ傾向は危い匂いがぷんぷんしている。ファミコンやPS1のように、あるいはUFOキャッチャーやプリクラのように、ハードウェアを絡めた打開策が必須のように思えるのだ――。
次回こそ、本題にたどり着きます!
題して「遍在するゲームコンテンツ」
本誌連載時には、本文中の「1994年」という年号を「1996年」と、誤って書いてました(汗)。
うー、遺憾。最近どうも書き間違いが多くてイカン。ああ恥ずかしい。
自分の誤記を棚に上げて云うならば、編集者に見つけてほしかった。たのむよ、うめちゃん。
それはともかく。
今回もまた「合コンで高めのおねーちゃん」とか書いてるけど、これはあくまでも「ネタ」であり、そんな事実はありません。
例の「スーフリ」事件以来、合コンってトント無くなっちゃいましたねー。
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2004年02月13日
嘘六百・第42回/「新ハード」(1)
2004年は、新ハードで盛り上がるらしい。
XBOX2にPSP、そしてデュアルスクリーン携帯機ニンテンドー・ディーエス。
いちユーザーとして、どんなソフトが発売されるのか楽しみなのは皆さんと同様だが、それ以上に、「制作者として」脳味噌が沸き立っている――こんな事出来るかな、あんな事出来るかな…アイデアが膨らむ機能が満載だといいナ、作り易いアーキテクチャだといいナ…面白デバイスが付けられるといいナ、新しいユーザー層を開拓したいナ…同発タイトルはスーパーパンチアウトだろうナ、タイトーではダライアスの企画が持ち上がるだろうナ…等々(最後のはチト違うか)。
もちろん、どのハードも詳しい仕様は知らない。だが、知らないからこそ、私の脳内では理想化された「新ハードという存在」にインスパイアされたアイデアがどぼどぼと湧き出し、妄想が止め処なく広がるのだ。
ところで私、SCEに机を置かせてもらっているのにも拘わらず、PS3はおろか、PSPの情報すら一片たりとも持っていなかったりする。フリーの身なので、契約外の情報が制限されているという事情もあるが、むしろ、シリーズ物2本に手一杯で、他に関わるキャパが無い、という理由の方が大きい。
そんな私に出来るのは、本業の合間にモヤモヤっと妄想する事だけだ――「新ハードが、こんなんだったらいいナ」と。
そこで今回からしばらくは、私が妄想した次代の新ハードについて、つらつらと書かせていただく事にしよう。
まず、次代を拓くべき新ハードに欠かせない必須要素は、「全く新しい遊び」とか云った誇大表現でない事だけは間違いない。
確かに20年前なら、手元の操作に応じてTV画面上で何かが動いて快感――というTVゲームの本質そのものが、全く新しい遊びとして魅力的だったろう。しかしそれ以後、「TVゲームの登場」以上の新しい遊びが生まれた事実はない。生まれたのはただ、既存の遊びとTVゲーム的快感の組み合わせバリエーションであり(ソフト的進化)――あるいはコンピュータ技術の進化に伴い映像音響表現が深化して、快感量が増えていっただけだ(ハード的進化)。
ただ、人間が快感を受容できる度合いには限度があるので、今や快感量を劇的に増やすのは(表現で驚かすのは)無理。ならば、新しい組み合わせバリエーションを作る方向に、もう一度目を向け直そう――それが最近巷で云われる「新しい遊び」の正体だ。「コミュニケーションの楽しさ」が、何もインターネットなぞ使わずとも、既に10年以上も前にゲームセンターという場で実現されていたのと同様、「新しい革袋に古い酒」的な新規性の提案と云っていい。
――だが、本当にそれが、「ゲーム離れ」が叫ばれている2004年に必要な要素なのだろうか?
今、切実に必要なのは、バリエーション増加などではなく、「ゲーム習慣と社会生活を両立させる仕組み」といったものではないのだろうか。
もちろん次号に続きます
この原稿を編集部に提出した時、うめちゃんから『「全く新しい遊び」は「異質な遊び」と言い換えないか?』と提案され、相当に迷った覚えがある。「異質な遊び」とは、そう、任天堂の社長が云っていた文言だ。
個人的には、(本文中にも書いたように)「異質な遊び」なんて有り得ないと思ってるし、PS陣営に居ることもあって、「任天堂が何云ってやがんでい」だったのだけれど(笑)、その一方で、ゲーム業界に禄を食む者としては、任天堂が「ゲーム業界を盛り上げよう」と一生懸命考えた「セールストーク」を腐すのも、大人げないかなあ、と思い、結局「全く新しい遊び」という元原稿のままにしておいたのであった。
とか云いながら、ニンテンドー・ディーエスが、マジで「異質な遊び」をもたらす物だったら、素直に「ゴメンナサイ」だけど(笑)。
少なくとも、「単なる2画面携帯」ではないんだろうけど――その隠された仕様や如何に!?
あー今年のE3が楽しみだ。
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2004年01月30日
嘘六百・第41回
年頭にあたって気を引き締め直す意味も込め、あらためて「CESAゲーム白書」を読み、妄想に耽ってみた。
成長産業の旗手であったゲーム産業にも翳りが見え、国内向けソフトの出荷額はピーク時の6割近くまで落ち込み、しかもプレイ人口も減っていると云う。
が、そんな事は、現場で仕事をしていれば嫌でも肌で感じるし、そもそもプレステバブル期の水準が高すぎたのだとも云える。低成長なら低成長なりの生き延び方はあるのだし、それを問題視している訳ではない。私が背筋を寒くしているのはむしろ、年齢分布(デモグラフィー)と、それらの層が購入するソフトの傾向に対してだ。
ここからは私見も混じるが――市場の中心を担っているのは依然としてファミコンの洗礼を受けた世代であり、彼ら(私ら)は曲がりなりにもゲームの多様性を支えているように見える。
しかしその下のゲームボーイ+ポケモン世代にとっては、ゲームとはそれほど多様性のある物では無く、むしろキャラクター商品であり学校での流行物(=コミュニケーション・ツール)であり――しかし、それ以上の物では無いのではないか。
このままではいずれGBAを「卒業」し、ごく少数の好き者を除いては、その後はゲームをやり続ける事も無いのではないか。
もっと云うなら、「将来、ゲーム業界に進んでくれないのではないか?」
裾野が広い程、頂上も高い。子供のサッカー人気が巡り巡って、日本をW杯決勝に出場させたように、ファミコン人気が日本ゲーム産業のレベルを底上げした事に異論を唱える者はいまい。ならば逆に、子供に「卒業」されてしまったなら、次代のゲーム業界は、ずいぶんとお寒い物に成り下がってしまうだろう。そして近年その傾向が看て取れる――と考える私は、悲観論に過ぎるのだろうか?
話は変わり、新年会の帰りにタクシーに乗った時の事。運転手さんに嘘六百を吹き込むのが好きな質の私は、その時も、こう口火を切ったのだった――
鶴見「いやもう休めるのは正月だけですよ」
運転手「(ダルそうに)お客さん、何の仕事?」
鶴見「ゲーム作ってるんです。TVゲーム」
運転手「(興味なさそうに)ほほう、TVゲームねえ――さぞかし儲かるんだろうね?」
鶴見「ええ、儲かりますよー。年末に発売になった『ポッケモン・エグゼ2』ってゲーム作ったんですけど、100万本売れたから、ボーナスも5千万円位ですかねー…でもウチの会社で『グランツーリスモ』って車ゲーム作った奴は、納税額が1億6千万ですよ、チーム全員が。私なんて子供の頃からゲームばっかやってて叱られてたクチですけど、元は十分取りましたかね。両親にお年玉100万ずつあげちゃいましたし! 儲かりますよー!」
運転手「(途端に目を輝かせて)ほほう! そんなに儲かるんだったら、ウチの息子にも、どんどんゲームやらせてみようかね!
――なあ、兄ちゃんの作ったゲーム、息子に買ってくよ! なんてんだっけ?」
鶴見「『ラチェット2』って名前です――!」
今年も早速、次代のゲーム業界に
貢献致しましたヨ!(実話)
この間も、会社の人間とこんな話をしたのであった。
「今のゲームって、20年経ったとしても『ファミコンミニ』みたいな価値は付かないよね」
今のゲーム購買の中心を担っている「ファミコン世代」ってのは、やっぱり特殊な世代なんだと思う。「ビデオゲーム」という、全く新しいオモシロ文化が生まれ、拡散し、収斂してゆく様をリアルタイムで見続けた世代。彼らが「あの時」に体験した興奮は、世代特有の物であり、今の子供は、決して同じ興奮を味わっているワケではない――それを忘れちゃいけないと思う。
ファミコン世代相手のお得意様商売ばっかり続けてると、いつか衰退しちゃうよ、ゲーム業界。
それこそ、シューティングゲームのように。対戦格闘ゲームのように。
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2004年01月09日
嘘六百・第40回/「オンラインゲーム」(完)
詰まるところ、オンラインゲームと謳いながら、その実はコミュニケーションサービスに過ぎない「ゲーム擬き」は、オンラインプラットフォームの普及をブレイクさせる為のキラーコンテンツ足り得ないというのが、繰り返し述べている私の考えだ。
よりゲーム的な「出会い系」が、法規制が入る程の低年齢から(苦笑)高年齢まで、幅広い層にわたってブレイクしたのとは対照的だと云えるだろう。
それでも、韓国や中国のように、ビデオゲーム文化が(事実上)オンラインゲームから始まったという「初な」市場なら、サルの様に赤く腫れ上がるまでヤリまくってくれるのだろう。しかし、日本の様に倦怠期を迎えているスレっ枯らしな市場では、それも期待できない。
広いユーザー層にアピールする為には、どうしたって、ユーザーの欲望を直撃するキャッチーな「ゲーム的」なセールスポイントが必要なのだ。それは例えば、彼氏彼女との出会いであったり、エロであったり、現金であったり――。
宝探しを、オンラインの世界でやらせるというのはどうだろう? いやなに、単なるアイテム探しをさせるのではない。本物の、(例えば百万円相当の)金品を探させる「懸賞ゲーム」という意味だ。
たしか数年前、海外発の絵本で似たような物があったと記憶している。本文に散りばめられた謎を解き、地球上のどこかに本当に隠されている高額宝飾品を探す、というイベント的な絵本だ。
それと同様な、オンライン宝探し――ちょっとの投資と知恵で、お宝が手にはいるかもしれない!――というのは、拝金主義でデフレ時代の日本にはピッタリの企画ではなかろうか、うむ。
キャッチーな目標物さえ設定できれば、ビジネスプランを策定するのも楽しい作業だ。
例えば実際の製品構成は、「スターターキット」と「チケット(アペンド)ディスク」という形が良いだろう。スターターで開発費をリクープ(回収)し、アペンドでサーバー運営費と追加イベント開発費、ならびに賞品代を賄う、といったイメージだ。つまり、定期的にアペンドを発売し、それが即ち、あるお宝を探す為の参加費となる。当然、別課金なんて面倒くさいやり方は必要ない。
アペンドは、期間限定にすべきだろう。例えば毎月1日発売で、有効期限は月末まで。その1ヶ月間で、お宝を探させる訳だ。これは、古株ユーザーと新規ユーザーを同じスタートラインに立たせるという、ゲーム的な意味合いもあるが、同時に、月単位で収支計画を立てやすい、というビジネス上のメリットも生む。
ここまで見通せれば、後はゲームとして設計するのは簡単だ。少数のプレイヤーに情報が集中しないように、時間的・空間的に謎とヒントを散りばめる事によって、ユーザー間のコミュニケーション――競争と協同の程良いミックスを促進し、あるいは1ヶ月間遊んでもらうために時限イベントを設定して――
――あ、マジでイケそうな気がしてきた。
後は、景品表示法をクリア出来さえすれば、マジイケるんじゃないか、これ? コラムの原稿じゃなくって、企画書にして会社回りすべきだったかなあ(笑)。
本文では、オンラインゲームについての考察を進めた末、今回のようなアイデアを思いついた様に書いてあるけれど、実は、まず今回のアイデアを先に思いついて、その後に「本当に市場性があるかどうか?」考察を進めたというのが真実。
いつもそうなんだよね。まず「アイデアありき」。
ちなみに、思い浮かんだのは、もちろん「喫煙室」でだ(笑)。
(確か、1年ぐらい前のコトかな?)
んで、考察の末、俺の結論はネガティヴ。まあ、かなり面白いだろうし、メシの種にはなるだろうけど(いや、「メシの種」どころじゃないな。上手く転がればキラーに成りうるぞ)、でも、今の仕事をほっぽってまで関わるつもりはないからこそ、今回のシリーズとして原稿にしたってワケだ。
あと、もしこのアイデアに興味を持った人がいたら、忠告。
原稿にはあえて書いてない「あるフィーチャー」を加えないと、今回の企画は完成しませんぞ。ご用心、ご用心。まあ、ちゃんと考えれば分かるコトなんだけどね…。
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2003年12月26日
嘘六百・第39回ボツ版
今回の原稿では、前回の続きは一旦中断して、とある雑誌レビューについて苦言を呈させていただく。
自作についてのレビューに対してあーだこーだ云うのは、制作者として非常にカッコワルイ態度ではあるが、なあに俺は元々カッコワルイ芸風なので構やしない。遠慮会釈なく苦言を呈させていただこう。
先週、ゲーム好きなら誰でも知ってる「有名クロスレビュー誌」の校正用原稿がFAXで届いた。既に発売になっている雑誌だから、ここで点数を公表しても差し支えなかろう。「ラチェット&クランク2」に対して、4人のレビュアーが付けた点数は、8/8/8/7で、合計31点のシルバー殿堂入りだという。
――ちょっと待った。確か前作はゴールド殿堂入りで、メダルとシャンパンを戴いた筈だし、「2」では、そこから更に作り込んだ自負もある。新規要素も満載だ。何故、点数が下がるのか? ひょっとしたら、自分らで見落とした欠陥でもあったのか!?
――そう思い、レビューの本文を読んでみたのだが、いやはやなんとも呆れてしまった。以下、ファミ通12/19号から引用させていただこう。
あるレビュアー曰く、
「カメラアングルはアクションの邪魔にならないような動きで、プレイ中にストレスを感じることはまずない」
ところが、その下のレビュアーはこう宣うのだ
「視点が理不尽で――」
どっちやねん!?
また、あるレビュアーは
「誰でも触れる敷居の低さと間口の広さがいい感じなのだ」
と云い、その2つ下のレビュアーは
「前作に比べて若干、初心者に厳しくなった感じ」
だと来た。
混乱するっちゅーねん!
クロスレビューというものは元来、嗜好・熟練度の違う複数の選者=複数の評価軸によって、ゲームを多面的に評価すべきものだろう。また、点数を付けるからには、バイヤーズガイド買い物案内として、様々な読者に指標を与えるべきものでもある。だから、ある選者が「好き」と云い、ところが別の選者が「嫌い」と云うのならば、それなりに納得は出来る。
だが、同じ評価軸で好評不評がバラつくのは何故なのか?
前述のレビューを読んで、初心者は、自分に向いたソフトなのかどうなのか、決して判断できないだろう。これは、何も書いてないに等しい。というか、読者を混乱させるだけだ。
それこそ、雑誌として「視点が理不尽」なのではありませんか、ファミ通さん?
思うに、もっと有力なソフト――例えばFF12とかだったら、こんなに理不尽でユーザーを混乱させるような書き方はしないんだと思う。評価の正当性、ひいては雑誌の信憑性を疑われちゃうからね。結局、こうした「視点が理不尽な」レビューから読者が得られる情報は「ファミ通はラチェット2を軽んじている」それだけかもしれない。悲しい事だけど。
雑誌のレビューについて、次回、頭が冷えてから更に掘り下げてみます。
というワケで、この回はボツにされてしまいましたとさ。
理由として、ドリマガに掲載された編集ウメちゃんの文章を引用しておこう。
こんにちは、本コーナー担当編集のウメです。 えー、今回の「嘘六百」は、作者の原稿が掲載には至らないレベルだと判断しまして、掲載を見送らせていただきます。軽くその内容を解説しますと、今回はゲーム業界に昔からはびこる、風習(のようなもの)がテーマだったのですが、原稿には「ちょっとこの書き方はないだろ」という事例の引用や表現が目立っていたわけです。 しかし、氏の主張にはもっともだと肯定できる部分も多分にあり、ドリマガとしてはそれを全否定するわけではありません。いつかこの題材で、ドリマガと鶴見氏のどちらも納得の原稿を掲載することをお約束します。みなさま、今回はごめんなさい。 (ドリマガ 2003/12/26号より引用)
俺は決して「掲載に至らないレベル」だとは考えていないワケだが、「鶴見六百が、ドリマガを使ってファミ通に喧嘩を売っている」という構図がマズいと判断されたのであろう。論壇ではよくある話なんだけどね。あ、いや、俺も別に、ファミ通さんに喧嘩売ってるつもりは全くなくって、ただ――悲しかっただけ。理不尽な書かれようをされたコトが。
ちなみに、バックナンバーをご覧の方は御存知だろうが、昨年のラチェット1の時も、同じように雑誌のレビューに苦言を呈し、同じように原稿をボツにされているワケだ。
前回はちゃんと原稿を書き直したけど、今年は書き直さなかった。「これがボツになるとしても、書き直さないからね!」と宣言して。俺の、ささやかなプロテスト。
思うに、メディアに出る制作者は何故か聖人君子や分別のついた大人ばかりで、雑誌レビューに対する不満(絶対持っているはず!)には、決して触れようとしない。数年前に、イイノ某なる人間がファミ通に噛みついた、という僅かな例があるのみだ。これって、良いことなんだろうか? 雑誌にとって…制作者にとって…読者にとって。
最後に、イラストの榎本俊二さんが送ってくれた応援メールを掲載して、この項を閉じよう。
(榎本さん、サンクスです!)
ちなみに今回の原稿で一番好きな箇所は「自作についてのレビューに対してあーだこーだ云うのは、制作者として非常にカッコワルイ態度ではあるが、なあに俺は元々カッコワルイ芸風なので構やしない。」
鶴見さんのあーだこーだいうカッコワルイ芸風は『嘘六百』でかなり確立したと私は思っています。それは世間が考えるよりも数千倍はカッコイイことなのです。前回の『ラチェット』のときもそうだったけどボツを恐れずその瞬間瞬間のタイムリーな血の通った原稿を編集にぶつける態度は頼もしいです。
これに懲りずにアナーキーな態度を全開し続けてください。
聖人君子でもなく
妙に分別くさい大人でもなく
偶像的な崇拝の対象でもなく
権威を振りかざすでもなく――
現場でしか感じ取れないコトを、
誰はばかるコトなく
体面も世間体も気にせず
感じたまま素直に
豪速球でブン投げる
とてもとても
カッコワルイ奴――
サウイフモノニ ワタシハ ナリタヒ。
tsurumy at 18:00 | リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2003年12月12日
嘘六百・第38回/「オンラインゲーム」(5)
さて、ここ数回にわたってオンラインゲームについて書いてきた訳だが、そんな折、またも某大手メーカー勤務の某氏からメールがやって来やがった。
「そこまで書くなら自分で作ってみろ」
――あのね、俺、今年は「ラチェット&クランク2」と「ジャック×ダクスター2」の為に、例年の数倍の仕事量=月500時間労働をついこの間まで半年近くも続けちゃって、今、心身ともにボロボロな状態なの! 喫煙室に籠もりっきりで寝泊まりして、生命の危険すら感じた程だぜ?(←またかよ)
そんな俺――先週マスターアップして、心身ともに解放感に浸ってる俺に向かって、更に仕事を増やせってか!?
鬼だね君はまるで!
大体、オンラインゲームじゃ、俺が今感じてる「マスターアップ直後の解放感」が味わえないじゃないか! むしろ、地獄は発売後にこそ存在するってのが通説だ。いつ終わるやも知れないサーバー運営やら、お得意サマへのご奉仕としての売り上げに直結しない開発作業やら何やらまで必要なんだろ。そんな先の見えないややこしいビジネスプランなんて、身分が保証されてる大手の社員でもなきゃ立てられねーよ。
つうか――
「オマエこそ、自分で作ってみろ!」
とはいえ、そういった難関があればある程、解決方法を妄想たくなるのが、制作者の悲しい性。本当にオンラインゲームでは「マスターアップの美酒」は味わえないんだろうか? ――ここでは、ゲームデザイン的なアプローチから、解決方法を探ってみよう。
まず現状での最大の問題点は、「開発」と「運営」とを明確に線引き出来ない事だろう。言い換えれば、運営の最中にも、開発資源を費やさなければならない、という事だ。
古典的ゲーム制作技法(これについてはいつか書く事もあるだろう)に則ってゲームをデザインする場合、ユーザーにアピールする「直感的に快感を想起させる目的」が必要だし、それを獲得する為の「チャレンジ」の設定もまた必須だ。これらこそが、ゲームの商品性の本質だとされている。
そしてこれらの、ユーザーがゲームから獲得しうる資源(獲得資源)――快感、得点、お話、ミッション、アイテム、etc――のヴァリエーションをゲーム世界内に予め用意しておく事こそがゲーム開発であり、開発資源は専らそこに投入されるべきなのだ。
だがもし、プレイの目的が、そうした古典的ゲームの範疇に入らない「コミュニケーション」なんていうものだとしたら「ゲーム」自体は、ユーザーを誘う為の宣伝販促ツールに成り下がってしまうだろう。開発と運営とを線引き出来ないのも当然だ。だって宣伝なんだから。
理想的には、運営中には開発資源を全く必要とせず、プログラムが自動的に(あるいはコミュニティが自律的に)、獲得資源を生成するのが望ましい。あるいは、ごく低コストのスクリプト等で獲得資源を制作するのもアリだ。
だが実は、もっとスマートに開発と運営とを区分けするアイデアも存在する訳で…
(以下次号)
ゲーム制作が過酷な仕事だというのは、よく知られた事実だが、俺らが命を磨り減らす作業に耐えられるのも、偏に「マスターアップ」というゴールがあるからだし、その先に「売れれば儲かる!」という夢があるからだ。
ところが、コミュニケーションを核としたネットワークゲームと云いながら、その実体はネットワーク「サービス」の開発は、マスターアップ後にも終わる事はなく、むしろ発売後こそが本番。何故なら、サービスとは運営こそが本質だからだ。
コミュニティを維持し、サービスに対して課金をする為には、既存参加者を飽きさせてはならないし、しかも、更なる新規参加者も募らねばならない。
(実はココに、ゲームデザイン的な落とし穴があったりもする)
その為には、イベントを開発し、継続的に供給し続ける必要がある。まあ一口に云えば、「シジフォスの神話」だ(永遠に岩を坂道の上まで持ち上げ続けるってヤツね)。作り手側としては、苦労のみ多く、実入りが少ない。
少なくとも、ゲームをきらきら輝かせる力となってきた「マスターアップ前の魔法」なんかは存在し得ない――。
これって、どうなんだろうね? 少なくとも俺はやりたかない。そういったタイプのモノは、ね。
じゃあ、どういったタイプなら良いのか?
それは次回の講釈にて…。
tsurumy at 06:00 | リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2003年11月28日
嘘六百・第37回/「オンラインゲーム」(4)
前回の純粋出会い系ゲーム「ときメモ®オンライン」試案に対して、某大手メーカー勤務の某氏(本人の希望により名を秘す)から質問が来た。曰く――
「出会い系は、参加者の数が多くなければ魅力が無いと思うのですが、初期集客からコア層の形成、ライト層への浸透に至るまでの『ロードマップ』は、どのように想定されていますか?」
オンラインゲームに限らず、我々が長期プロジェクトを計画する場合には、ロードマップ(と呼ばない場合が多いが)を作り、各段階における、明確な到達点(マイルストーン)、目標ユーザー層、投入経営資源と予算、そして次段階への移行が正しく行われ得るかどうか――等を設定・検討するのが普通だ。これ無しのプロジェクトというのは、まず有り得ないし、今回だっておぼろげではあるがちゃんと考えている。実現予定は無くとも妄想るのが、プロとして、習い性になってしまっているのだ。
で、某氏への回答だが、一定数以上のユーザーが居なければ、出会い系としての魅力が無いというのは指摘の通りだ(正確には、ユーザー数というよりも「ヒット数」の方が重要なのだが)。なので、素直に考えれば、最もユーザー数が少ない立ち上げ時が、最も面白くない時期だという事になってしまう。そして、最初が面白くないゲームに未来は無い。
もちろん、そんな事は百も承知だ。
ならばどうするか?
そんなの決まってるじゃない。
サクラだよ、サクラ!
仕込むしかないでしょ!
――といっても、純然たるサクラ=「集客の為だけの囮」とはチト違う。仕込むのは、実際に彼氏彼女を募集中で、出来れば、顔出し・プロフィール出しOKの人間たちだ。予算が許せば、イベント的なコンテストで、見目麗しき男女を選んでおくのが良いだろう。
初期においては、彼ら・彼女らをβテスターとして「雇い」、実際に彼氏彼女探しをしてもらい、その様子を逐一「公開」してゆくのだ。イメージとしては、「あいのり」や「パンチDEデート」(古っ!)のような感じか。
それらのTV番組よりも有利なのは、ゲーム内でのプライバシーは保護される事。即ち、顔出し・プロフィール出しで「参加表明」をしていたとしても、公開されるのは「ときメモ(R)世界のアバター」としての恋愛なので、外部からの匿名性は保護される。
これは、気恥ずかしさや躊躇いといった、自分のアイデンティティを護ろうとする――そして恋愛をする上では往々にして障壁になってしまうような心の動きからプレイヤーを解放するという、このゲーム特有のシステムに拠る副産物だ。
もし、可愛い女性・格好イイ男性が居ることが保証されている世界において、βテストにもかかわらずオンライン上で次々とカップルが成立していったなら――例えユーザー数が少なかったとしても、いやむしろユーザー数が少ないからこそ、放流直後の釣り堀や新装開店のパチンコ屋のように、早耳のユーザー


