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2004年02月27日

嘘六百・第43回/「新ハード」(2)

前回の最後に、新ハードの条件として「ゲーム習慣と社会生活の両立」と書いた。今回はその辺りを掘り下げてみよう。


「TVゲーム離れ」が叫ばれている。

前々回にも書いたが、今やソフトの市場規模は大幅に縮小し、メーカーも小売店も青息吐息で毎日を生きながらえている(という表現がぴったりだ)。確実に数字の見込める「大作」が発売されない時期は、売り上げが大幅に落ち込み、まさに死活問題。ついでに云えば、合コンで高めのおねーちゃん達に「ゲームぅ? キモーイ!」などとほざかれるのも、個人的にかなり死活問題(笑)。

ゲームの質が落ちていない事は、ゲーム業界の一員として、自信を持って断言できるのだが――我々に一体何が足りないというのだろうか!?

そもそもゲームという物は、快感に依拠した「習慣性のある嗜好品」だ。その意味では、煙草やパチンコに似ている。学校帰りにゲームセンターに行く習慣の学生集団は、特にお目当てのゲームが無くてもゲーセンに通うだろうし、毎晩TVの前に座ってコントローラを握る習慣の人は、ゲームのエンディングを見た直後、すぐさまこう考えるだろう「さて、次は何をやろうかな」と。

ゲームというのは、理性というより、惰性(!)で遊ぶ類の物であり、生活習慣に沿ったソコソコのゲームの方が、生活習慣になりにくい優れたゲームよりも、遊ばれやすいという傾向がある。それは携帯電話のゲームが人気を得ている現状をみても明らかだ。定期的に遊ぶ事によって、快感の記憶が常にリフレッシュされてゆき、習慣は継続されてゆく――。

1994年、SCEがプレイステーションによって「ゲームのある生活」を提案し、ファミコン以降は断絶していたライトユーザーにも、ゲーム習慣が根付いた――かに見えたが、高い年齢層の人間ほど、生活習慣は保守的にならざるを得ない。ユーザー年齢層が上へシフトするにつれ、可処分時間は少なくなり、ゲームを遊ぶ「間」が空いてしまい、快感の記憶が薄れ――現在の「ゲーム離れ」傾向を引き起こした、というのが私の見方だ。

ちなみに、以前書いた「大人はオンラインゲームをするな!」の根拠もここにある。可処分時間を食いつぶすMMORPG習慣は、社会生活と真っ向から対立する。キラーコンテンツに成り得ない事は明々白々だ。

で――実はこのような「ゲーム離れ」の危機は、過去に何度も訪れていたりする。が、その度に、「画期的(エポックメーキング)なゲーム」がブームを起こしては、ユーザーをリフレッシュし、ゲーム習慣に引き戻し、ゲーム離れを防いできたという歴史的経緯がある。

もちろん私も、ソフト制作に携わる者として、そのような「画期的な」ソフトを目指してはいるのだが――正直、今回のゲーム離れ傾向は危い匂いがぷんぷんしている。ファミコンやPS1のように、あるいはUFOキャッチャーやプリクラのように、ハードウェアを絡めた打開策が必須のように思えるのだ――。

次回こそ、本題にたどり着きます!

題して「遍在するゲームコンテンツ」

本誌連載時には、本文中の「1994年」という年号を「1996年」と、誤って書いてました(汗)。

うー、遺憾。最近どうも書き間違いが多くてイカン。ああ恥ずかしい。

自分の誤記を棚に上げて云うならば、編集者に見つけてほしかった。たのむよ、うめちゃん。

それはともかく。

今回もまた「合コンで高めのおねーちゃん」とか書いてるけど、これはあくまでも「ネタ」であり、そんな事実はありません。

例の「スーフリ」事件以来、合コンってトント無くなっちゃいましたねー。

投稿者 tsurumy : 2004年02月27日 06:00

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