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2004年02月13日

嘘六百・第42回/「新ハード」(1)

2004年は、新ハードで盛り上がるらしい。

XBOX2にPSP、そしてデュアルスクリーン携帯機ニンテンドー・ディーエス。

いちユーザーとして、どんなソフトが発売されるのか楽しみなのは皆さんと同様だが、それ以上に、「制作者として」脳味噌が沸き立っている――こんな事出来るかな、あんな事出来るかな…アイデアが膨らむ機能が満載だといいナ、作り易いアーキテクチャだといいナ…面白デバイスが付けられるといいナ、新しいユーザー層を開拓したいナ…同発タイトルはスーパーパンチアウトだろうナ、タイトーではダライアスの企画が持ち上がるだろうナ…等々(最後のはチト違うか)。

もちろん、どのハードも詳しい仕様は知らない。だが、知らないからこそ、私の脳内では理想化された「新ハードという存在」にインスパイアされたアイデアがどぼどぼと湧き出し、妄想が止め処なく広がるのだ。


ところで私、SCEに机を置かせてもらっているのにも拘わらず、PS3はおろか、PSPの情報すら一片たりとも持っていなかったりする。フリーの身なので、契約外の情報が制限されているという事情もあるが、むしろ、シリーズ物2本に手一杯で、他に関わるキャパが無い、という理由の方が大きい。

そんな私に出来るのは、本業の合間にモヤモヤっと妄想する事だけだ――「新ハードが、こんなんだったらいいナ」と。

そこで今回からしばらくは、私が妄想した次代の新ハードについて、つらつらと書かせていただく事にしよう。


まず、次代を拓くべき新ハードに欠かせない必須要素は、「全く新しい遊び」とか云った誇大表現でない事だけは間違いない。

確かに20年前なら、手元の操作に応じてTV画面上で何かが動いて快感――というTVゲームの本質そのものが、全く新しい遊びとして魅力的だったろう。しかしそれ以後、「TVゲームの登場」以上の新しい遊びが生まれた事実はない。生まれたのはただ、既存の遊びとTVゲーム的快感の組み合わせバリエーションであり(ソフト的進化)――あるいはコンピュータ技術の進化に伴い映像音響表現が深化して、快感量が増えていっただけだ(ハード的進化)。

ただ、人間が快感を受容できる度合いには限度があるので、今や快感量を劇的に増やすのは(表現で驚かすのは)無理。ならば、新しい組み合わせバリエーションを作る方向に、もう一度目を向け直そう――それが最近巷で云われる「新しい遊び」の正体だ。「コミュニケーションの楽しさ」が、何もインターネットなぞ使わずとも、既に10年以上も前にゲームセンターという場で実現されていたのと同様、「新しい革袋に古い酒」的な新規性の提案と云っていい。

――だが、本当にそれが、「ゲーム離れ」が叫ばれている2004年に必要な要素なのだろうか?

今、切実に必要なのは、バリエーション増加などではなく、「ゲーム習慣と社会生活を両立させる仕組み」といったものではないのだろうか。


もちろん次号に続きます

この原稿を編集部に提出した時、うめちゃんから『「全く新しい遊び」は「異質な遊び」と言い換えないか?』と提案され、相当に迷った覚えがある。「異質な遊び」とは、そう、任天堂の社長が云っていた文言だ。

個人的には、(本文中にも書いたように)「異質な遊び」なんて有り得ないと思ってるし、PS陣営に居ることもあって、「任天堂が何云ってやがんでい」だったのだけれど(笑)、その一方で、ゲーム業界に禄を食む者としては、任天堂が「ゲーム業界を盛り上げよう」と一生懸命考えた「セールストーク」を腐すのも、大人げないかなあ、と思い、結局「全く新しい遊び」という元原稿のままにしておいたのであった。

とか云いながら、ニンテンドー・ディーエスが、マジで「異質な遊び」をもたらす物だったら、素直に「ゴメンナサイ」だけど(笑)。

少なくとも、「単なる2画面携帯」ではないんだろうけど――その隠された仕様や如何に!?
あー今年のE3が楽しみだ。

投稿者 tsurumy : 2004年02月13日 06:00

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