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2005年02月19日

費やした時間に報いるデザインのコト

インフルエンザのせいで、大量の仕事がキューに並ぶ羽目になってしまった。いったんは治りかけたのだが、某新年会に出席したトコロ、再び悪化。ほぼ1週間の寝込みロス。ああ、新年会なんて行くんじゃなかった…。


さて、大量の仕事列に取りかかる前に、頭の体操をば。

プレイヤー中心のゲームデザインから、プレイデータ中心のゲームデザインへ(発熱地帯)

途轍もなく誤解を招きそうなタイトルのエントリーだ(笑)。案の定、コメント欄を眺めると、既にDAKINI氏が提起しているものと異なる解釈をされている方々がチラリホラリ。このタイトル、

「スキル評価のゲームデザインから、コスト評価のゲームデザインへ」

とした方が本質を外さないと鶴見は考えるのだが…いかがだろう。もちろん、ここで云う「コスト」とは、「プレイヤーが費やした**」を意味する。コンシューマゲームにおいては「消費時間」と等価であり、アーケードゲームにおいては、そのまま「投入金額」だ。

スキル評価というのは、端的に云えば「スコア」。通常、プレイヤーは特定のゲームに時間とかお金を費やせば費やすほど学習し、スキルが上がる。スコアが上がる。上手ければ全国ランキングのトップ(所謂「全一」)を取れるかもしれない。――しかし、上手くないプレイヤーは、同じスキルレベルに行き着くためには多大なコストを強いられるだろうし、あるいは、いくら時間とお金を費やそうがスキルレベルは頭打ちになり、そこまでたどり着けない場合すらある。個人差は極めて大きい。

「趣味のゲーム」ならば、それでも良かろう(そもそもコストなぞ度外視するから「趣味」なのだ)。しかし、「娯楽のゲーム」ならばNGだ。コスト(消費時間/投入金額)に見合った評価(褒賞)がなければ娯楽たり得ない。

例えば、もしドラクエが、ごく一部の上手いプレイヤーしかエンディングにたどり着けないようなデザインだったら、ここまで国民的ソフトにはなっていないだろう(当然)。あるいは、パーティが全滅したら以前のセーブポイントからやり直し、だったとしても。

「ヘタでも、時間さえかければどうにかなる」これがポイントだ。

死んでも全てが無になるワケではなく、時間を費やしさえすれば先へ進め、エンディングまでたどり着ける――RPGなどでみられるそうした保証こそが、ゲームを少数の趣味から誰にでも遊べる娯楽へゴラクエと変貌させ、市場を大きく拡大させたのだと考える。RPGが市場の大半を占めるのも、むべなるかな。

とするならば、ABA氏の云う「幅のやりこみ」も、ゲーム内に仕込まれた創造物マップを塗りつぶす、という意味ではRPGと等価だ。違いは、長い一本道か/短いツリーの束か、だ(「長さ」と「幅」とに分類出来るね)。

いずれにせよ、RPGの隆盛以降、世間的には「費やしたコストに見合った褒賞が得られるべき」だとする要求が大きくなり――それに対する回答の発展形が、DAKINI氏の指摘する「プレイデータ中心のデザイン」なのだと、鶴見は考える。そんなに新しいトレンドじゃない。いやむしろ…欧米のアーケードに古くからみられるリデンプションなどを思い起こせば、先祖返りとすら云えるのではないか(つうか、リデンプションから着想を得たっぽいよね、最近のカード払い出しアーケードゲームは)。

さて、アタマもあったまって来たし、仕事すっか!(涙

カテゴリー: 新・嘘六百

投稿者 tsurumy : 2005年02月19日 06:47

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コメント

確かにずれたレスがありますねえw
ゲーム性の話じゃなくて、コストとリターンの関係を話してると思うんだけど。混在しちゃってる人がいるね。
ムシキングとかを例に出せばわかりやすいのかもなあ。ゲーム性もあるし、リターンも明確だろう。

投稿者 こばん : 2005年02月19日 09:14