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2004年06月04日

嘘六百・第51回/「レビューと市場と制作者と」(4)

ゲーム業界の黎明期においては、制作者も販売サイドも、そして雑誌・ユーザーも一丸となって、クオリティと売り上げの格差を是正する方向に向いていたように思う。端的に云えば「クソゲーの駆逐」という共通認識があったという事だ。

そして逆説的ではあるが、そうした縛りがあったからこそ、制作者は安心してゲームの地平を広げようと、無闇矢鱈に実験作(つうか、クソゲー)を乱発できたという側面がある。革新的な物、完成度の高い物を作れば、売り上げ的にも名声的にも報われると信じて――。

しかし今や、クソゲーの定義は拡散し、制作者の技能によって対処できる範囲を超え、ゲームデザイン/プログラムデザインの失敗ではなく、ビジネスデザイン的な失敗作を云うようになってきている。制作者が職人的に高い完成度のゲームを作っても、ビジネスデザイン的に失敗すれば全く評価されず、それどころかクソゲー扱いされてしまう。

制作者の仕事が評価されない市場で、品質を上げ、多様性を開拓しようとする士気を、制作者はどうやって鼓舞すれば良いのだろう――。


前回、欧米ゲーム業界で話題の「パブリッシャー(販売会社)とデベロッパー(制作者)の対立」について、ほんのさわりではあるが、書いてみた。そもそも今回のシリーズは、ゲームのレビューについて苦言を呈するために始めたはずなのに、なんでそんな話をしているのか(しかも海外の話だぜオイ)解りにくい読者もいようが、しばしお付き合いを願おう。

対立――要は、ビジネスデザインを司るパブリッシャーが、デベロッパーに比べて大きな力を持っているがために、制作者=ゲームを作る才能を軽視する傾向にある、という事だ。それは、作るゲームの内容が、販売会社の意向によって大きく左右されるという意味でもあるし、もっと下世話に云えば、利益の配分においても販売会社の取り分が圧倒的に多いという意味でもある。下手すれば、売って貰えない場合すらある。生殺与奪の権を販売会社に握られた作り手のモチベーションは下がる一方だ。

云うまでもなく、ゲームは一般的な工業製品などとは違い、制作者の才能と汗と徹夜の産物。実体験として、制作者のやる気の低下はゲームの質の低下に直接的につながる。その意味では、販売会社も制作者も運命共同体のはずであり、制作チームのやる気の低下は販売会社にとっても見過ごせない問題のはずだ。なのに対立の凝りが放置されているという事は――導き出される結論は一つ。パブリッシャーが、(制作者が産み出す)ゲームの品質の低下を、売り上げに影響を及ぼさない取るに足りない要素だと見ているという事だ。

そして、そうした判断を許容しているのが、続編・版権物ばかりが売れる「ブランド市場」なのである。そうした意味では、これは対岸の火事――欧米だけの問題ではない。ブランド市場化は、日本を含んだ全世界的な傾向なのだから。

とは云え、私はブランドを否定している訳ではない(自分も続編をブランド化しようと目論んでいたりするし)。ただ、ブランド力を担保するはずの「品質」は二の次であり、ブランド力そのものこそが売りとなる「ブランド市場」というのは如何なものか、と云っているのである。それは先述の様に、ゲームの進化をストップさせる結果しかもたらさないからだ。そして進化の止まったゲームはブランドでしか選ばれなくなる――悪循環ですなどうも。

では、我々ゲーム業界に生きる者は、どうすべきなのか? それは次回にて。

タイトルのブランド化について思索を深めている昨今だが、それとリンクして、俺的にホットな話題が「ゲームのメディア化」だ。
「メディア」というのは、いわゆる「紙メディア」「電波メディア」等と同じく、伝える為の「媒体」というコト(そのまんまや)。

解りやすく云えば、「ゲーム」そのモノ自体の価値は相対的に低下し、ユーザーが受け取るイメージ全て――ゲーム商品だけでなく、宣伝とかコミュニケーションとか、そういった周辺一切合切も含めた「ゲームの上に載るモノ」こそが、市場的価値の主体となっている、というコトだ。


ここで唐突だがマンガを例に引く。

ちくま文庫の『「ガロ」編集長』(長井勝一)なんかを読めば判るんだけど、戦後しばらく、赤本マンガが飛ぶように売れた時代があった。それこそ、適当なマンガの断片(導入も無ければ、結末も無い!)をまとめて製本しただけで、内容なんかお構いなしに売れたのだ。人々が娯楽に飢えていた時代、「マンガという娯楽である事」そのもの故に、売れていたというワケだ。

私見に拠れば、ゲームも同様の歴史を辿ってきているように思う(ファミコン粗製濫造時代ってのは、まさに↑の轍や)。
そしてマンガ同様、大量のゴミの中から、エポックメーキングな名作がマンガの地平を広げ、それは市場の拡大をも推し進めてきた――。

――が今や、エポックであるコトと、売れるコトとはリンクしていない(ま、語意から云えば、十分売れなければ「エポックである」とは云えないワケだが(笑))。


さらに唐突だが、自動車を例に引く。

今や、「ドライヴィング・プレジャー」等というのは趣味の領域であり、売れる車の要素というものは、運転の快感や移動の便利さとは別次元に存在する。ぶっちゃけ、完成度の高い車が売れるとは限らず、商品としての車が、ユーザーにもたらしてくれそうな「生活のイメージ」と、そのイメージを刷り込む為の広告(の出稿量)に大きく拠っているワケだ。

(あー、自明な論をグダグダと書き連ねるのは面倒なので途中を大幅に割愛するが)

俺は以前、RPGジャンルの事を「ゲーム性という麻薬を点滴のように薄く供給しながら、ユーザー飽きさせずにお話を伝える、ゲームの体を為したメディア」と評した事があるが、今や市場において、ゲームという物全てが、そうした「媒体」であるかのように受け取られているフシがある。

そう、今やゲームにおいて、ゲーム性という「脳味噌へのご褒美」自体には商品価値が少なく、その上に載った、「お話」だとか「キャラクター」だとか、「エロ」とか「萌え」とか、そういった物こそが、商品価値の大部分を担っているかの様に見えるワケだ。

俺なんか「ゲーム性原理主義」の古い人間だからして、こんな状況には忸怩たるモノがあるワケだが、まあ、「ガロ」を発行してるだけじゃ、食ってけないのも事実。

そんなこんなで、健全なゲーム屋としては、続編モノばかり作って、自作のブランド化を目指すワケだ。
最近も、とある続編の台本をイタコと化して書き、さっき音声を収録してきたし)


それにしても、あらためて今回の原稿を読み返してみたけど、俺のやってる仕事ってば、大手パブリッシャーの(社員じゃないけど)プロデュース業務。もうね、どのツラ下げて、こんな原稿書いてるんだ!って内容だよね。

まあだからこそ、「コウモリ」の立場から、パブリッシャーもデベロッパーも並べて、論ずるコトが出来るってワケなんだけど。

オープンカーは、屋根を開けてこそ、オープンカー。
「オープンカーというイメージ商品」が売れても、屋根を開けない「陸オープン(おか・おーぷん)」な野郎が
蔓延しているようじゃ、面白くないし、未来もないよね。

(と、この項は散漫なまま、了)

投稿者 tsurumy : 2004年06月04日 06:00

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コメント

私も、10年ぐらい前からそんなことをうっすら感じていました。しかし、それは、私の特に関心のある業界ではなかったので、これも時代の趨勢で仕様のない事かと思ってみていたのです。でも、徐々に状況は変わりつつあるのではないでしょうか。消費者はネットを介して、「紙メディア」「電波メディア」に押し付けられたものではなく、自分の嗜好にマッチする物を選ぶようになった。

>人々が娯楽に飢えていた時代、「マンガという娯楽である事」そのもの故に、売れていたというワケだ。


広告代理店が支配できない媒体の登場で、その人の嗜好に最適でない物でもビジネスデザイン次第で売れる時代は終わらざるを得ないでしょう。

広告代理店は、売れるはずのない物を如何に売るかだけを競ってないで、売れるべき物を選別するセンスを競わなければ、取り残される。馴れ合っていれば良い時代は終わるのじゃないでしょうか。

自分の価値観を信じ、自分が良いと感じるものについて、深く研究する者だけが生き残るのでしょう。

表現者は、料理する素材についてと、それに適した料理の仕方、両方を勉強するようになるでしょう。

習・守・破・離。
先人の知恵、技術、そこに自分の趣味嗜好と、異分野の知恵、技術をプラスしたハイブリッドな物が出てくるでしょう。

>RPGジャンルの事を「ゲーム性という麻薬を点滴のように薄く供給しながら、ユーザー飽きさせずにお話を伝える、ゲームの体を為したメディア」と評した事がある

私は、RPGジャンルはゲームとは捉えていません。
消費者が、のめりこむ為のギミック付の、お話だと思っているので、ゲームではないかもしれませんが、その価値が否定されるものでもないと思っています。
自分にとって、価値のあるお話かどうかという事だと思います。(ゲームを作っていらっしゃる方々にとっては違和感のある事なのかもしれませんが)

投稿者 オルフェウスは振り返る : 2007年06月05日 04:56