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2005年11月16日

ざるの会を再発見セヨのコト

ゲームに関する言説を「日本語で」眺めると、なんていうか、とても基礎的なトコロであーだこーだ云っている様に思えてウンザリしてしまう。舶来主義を気取っているワケではない。「Rules of Play」なんて2年前の本だろ。コスティキャンの論文に至っては、NIFTY Serve全盛の頃だから…えーと…10年以上も前の話じゃないか。しかもTRPGに関する論文だ。そういった古文書をありがたがって引用している方々というのは、本当に「ゲーム大国・日本」に今を生きている人間なのか?

とか云いながら、鶴見がするのも古文書の話だったりする(笑)。今から13年前に初版が発行された「ゲームデザイン入門」(ざるの会、1992-1997)という同人誌がある。初期においては、コミケその他の同人誌即売会でしか入手できず、一種「知る人ぞ知る」…いやむしろ「知る人ぞ識る」的な冊子だったのだが、現在、リンク先に全文が再掲されているので、みんな読んでくれ、まずはそれからだ

念の為もう一回、大きくリンクを貼っておこう。

「ゲームデザイン入門」(ざるの会、1992-1997)

狭義のゲームデザインとアーケードビデオゲーム制作についての論文で、今読み返してみると古い箇所もあるが、そりゃそうだ、初版から既に13年も経っているんだもの。しかし、ゲームによってプレイヤーに何が起こるのか――プレイヤーに何かを湧き起こさせるゲームを制作するためには何をすべきなのか、そういった狭義のゲーム性に関する考察は、今もって古びていない。そして、ドッグイヤーなゲーム業界の中で13年もの長い時を経て、ゲームに関する言説がここから相応に進んだかと云えば、全くそんなコトがない。これはいったいどういうコトか。せめて、本書で書かれているコトぐらいは常識として、その先の議論をしたいのだが。


「ネット*゛ャル」についてのエントリーで、鶴見は「これからはWeb2.0ゲームだ」といった言説を揶揄したワケだが(いやそう思わなかった人もいましょうが、そうなのです)、ざるの会の本の中で、そんな鶴見の想いを簡潔に述べている表現があったので引用させていただこう。

「ゲーム業界馬鹿発言大将1994」

ビデオゲームの表現能力が限定要因になり「人間の暴力」を表現できなかった時代が、つい最近まで続いたんだ。人間を生き生きと動かせるようになった今、ようやく「暴力」という普遍的な刺激をゲームに活かせるようになったんだ。時代の流行と簡単に言うが、メーカーがいくら作ってもプレイヤーが支持しなければ流行にはならない。流行は原因ではなく結果なのだ。

「これからはゲームもWeb2.0だ!」とか云う人は、「ハッピーメディアクリエイター」とか名乗っちゃうといいと思う。

カテゴリー: 新・嘘六百

投稿者 tsurumy : 2005年11月16日 17:20

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