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2005年11月20日

あれれ氏への返答コメントのコト

あれれ氏のブログ「ゲームのマボロシ」で、先日書いた「ネット*゛ャル」が採り上げられていた。しかも、なんだか興味深いコメントが付いている。これは鶴見からもコメントを返すのが礼儀だろうなと思い、先方のコメント欄でつらつらと書いていたのだが、なんだか長くなってしまったので、こちらに移して書くコトにする(なので、文体が違うのはご愛敬)。


「ネット*゛ャル」についてのエントリーでは、失敗の原因をあえて書きませんでしたが、「通りすがり開発者」氏(「ゲームのマボロシ」コメント欄参照)の謂いに沿って強いて書くなら、1997年当時「c)現実的な環境&市場」が欠けていた」というコトになりましょうか。

ぶっちゃけ、商売となる途が見えなかった。そしてモチベーション消失。なので、「失敗」というより「失速」というか「立ち消え」というのが正解だったりします(笑)。メンバー全員が別に本業を持っていたので、商売になりそうもない実験作に、それ以上リソースを費やすコトが出来なかったというコトでもあります。

ゲームデザイン的には、企画リソースを費やせば完成するのは当時から見えていました。今からでも完成させるコトは出来ると思います。ことにWeb2.0流行りの今だったら「Web2.0的なゲームです!」とか企画書に書けば、チームメンバーの理解も早いでしょうし、なにより、金持ちのオヤジを転がして、よりラクチンに実現出来るかもしれません。

では、ネット*゛ャルに「ポストモダンなゲームデザイン技法」やら、「ここ数年で急速に普及したインターネット環境」やら、「Web2.0的な視点」とやらを加えれば、現実的なプロダクトとして成立するのでしょうか? ――そうではないと思います(というか、どれも既に含んでいました)。きっとネット*゛ャルは、実験作としてしか着手し得ないモノ…「商品としての種」ではないモノだったのだと思います(発案者として無責任な物言いですが…汗)。


ゲーム企画というモノは、属人的というか、ある人間の「作り上げたいという意志」によってドライヴされるモノだと思っています。それは、モチベーションでもありますが、むしろ「ビジョン」とか「インベンション」に近い。それ無しにゲームは(というか創作物は)生まれないと思っています。それは鶴見の経験則です。

確かにゲームデザインには「セオリー」と云えるモノがあるのですが、とは云え、セオリーをいくらツギハギしても「ゲーム」にはならない。アイデアを篩い分ける「ざる」はどこまでいってもざるであり、誰かが生んだ「種」(あれれ氏の云い方では「卵」)がなければゲームは生まれない。種があってこそ、それをセオリーによって「磨く」コトが出来るワケです。

んでもって再三述べている通り、鶴見は「Web2.0」を結果論だと考えています。もっと云えば、Web2.0というのは「セオリー」の一つではあっても、すべてをカヴァーする「ルール」では有り得ない。しかも、「今の時代の」セオリー…というか、むしろ「ブーム」の一つに過ぎない。喩えるなら、スト2以後、対戦格闘ゲームが氾濫したようなモノだと考えれば解りやすいかもしれませんね。


話はちょっとズレますが…スト2流行りの当時、とあるゲームが上からの業務命令によって方向転換を強いられ、当初の予定とは違う「対戦ゲーム」に改造させられてしまったと思ってください。たまたま企画者(鶴見ではありません)が有能だったので、微視的に見れば、スト2の成功の法則を綺麗に移植していたというコトにしましょう。

ならばそのゲームは成功したのか?

――あっという間に忘れ去られました(いや、カルトなファンはいまだにいるのですが…笑)。

ただ、その企画者は後に、対戦筐体という(スト2のおかげで)ゲームセンターに行き渡ったインフラを存分に利用した「彼の発案になるゲーム」によって、リベンジを果たしたというコトです。セオリーを自分のスキルとして身に付けた彼が、自分の「種」を適切にインキュベートしたというコトになりましょうか。


で、「ネット*゛ャル」の話にもう一度戻ります。鶴見は、「ネット*゛ャル」を自分のブログで公知とするコトによって、ある意味「捨て」ました。なぜなら、鶴見が仕事として手を着ける価値のある「種」ではないと判断したからです。それは、どんなセオリーで磨いても無理だと考えるからです。

でも、種なんか捨ててもいいんです。「ゲームのルール」についての考えも昔よりは遙かに深まっていますし、あとは「時代のセオリー」に適度にsavvyだったら、種なんかまた幾つでも見つけられるだろうと思ってますから。まあ、そうでなきゃ「企画屋出身」なんて名乗れないって話でもありますが(あ、これって、DAKINIさんトコの「昔語りとクリエイティヴの違い」に対しての意見表明にもなってますね)。

まあそういうコトです。

カテゴリー: 新・嘘六百

投稿者 tsurumy : 2005年11月20日 23:59

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コメント

僕のしょうもない記事にこのような反応をしていただいて、ありがとうございます。

僕の誤読でなければ、すでに97年当時に「構想としては面白いけど、それってそもそもゲームとして面白いの?」と自問自答してしまった、だから作り続けることができなかった、と受け取りました。個人的には、いわゆるリアルタイムに通信をするオンラインゲームではなく、サーバ上のデータをプレイヤーが共有するだけのオンラインゲームという方向自体は、掘っていけば何かありそうな気がしているんですけど、ビジネスとして成立するほど面白いゲームにまで持っていくのは、なかなか難しいんでしょうね。

「Web2.0というのは「セオリー」の一つではあっても、すべてをカヴァーする「ルール」では有り得ない」というのは、全くその通りだと思います。Web2.0的なサービスの全てが成功している訳ではなく、最近成功した新しいタイプの企業に何となく共通するものをリストアップしてみたというだけでしょうから。

ただこれは僕個人の感覚なのですが、「ユーザーを管理するのではなく協力しよう」「ユーザーを共同開発者として信頼しよう」という発想には、とても惹かれる物を感じるのです。リンカーンではないですが「ユーザーの、ユーザーによる、ユーザーのためのゲーム」のような感じです。開発者はあくまで裏方というような感じで・・・。理想論かもしれませんが、僕個人のゴールはそっちの方向かなと感じています。

投稿者 あれれ : 2005年11月24日 00:25

世のゲーム(的な構造を持ったモノ)全てがビジネスになるかといったら、そうではないワケで、ゲームとビジネスをリンクさせるのが「企画」なのだと考えています。

なので、「構想としては面白いけど、それってそもそもゲームとして面白いの?」と自問自答した結果で云うなら、ワタシは「面白い」とは思っていました。そのあたりは、あれれさんの誤読だとさせてください。

なので、「構想としては面白いけど、それってそもそもゲーム企画として面白いの?」と自問自答してしまい、作り続けるコトが出来なかった…という方が正解ですね。

投稿者 tsurumy : 2005年11月25日 10:06

あ、なるほど、確かに僕の誤読でした。
「ゲームとして面白いの?」というのは、「万人が幾ばくかのお金を払って遊びたくなるほど面白いの?」とするべきだったのですね。

20Qも、サイトだけだったらビジネスにならなかったでしょうし、ゲーム機のソフトとしてもなかなか成立しづらい物だと思いますが、玩具になるとビジネスとして成立するから面白いですね。

投稿者 あれれ : 2005年11月25日 23:06